HOPE in GRACE *流産・死産(子宮内胎児死亡)そして妊活の記録*

2016年12月 2度目の流産を15週で経験したときの記録です。そしてその後の妊活記録。

振り返り②県立病院の受診など…

週が明けての月曜日、午前だけ半休を取り、紹介状を持って県立病院へ向かいました。

沖縄県出生率No.1、その中でもこの病院はテレビでも超未熟児の取り上げが紹介されたり、産婦人科およびNICUの技術・経験には定評があり、他県からも受診する人がいる病院なので、ここで受診できることはとても安心できることでした。

コロナの状況で、厳重警戒ではあっても空いているのはありがたい。(コロナ対策でも沖縄県の中心となっている病院だったので、その恐怖はあるのだが…)

 

さて、診察。

先日の産婦人科の先生とは全く違う明るい雰囲気で先生から「おめでとう」「大丈夫」の声をかけていただきました。今までの経緯を話したり、遺伝子検査の必要も相談したけれど「同じようなところを通って無事に出産した人もたくさんいる」との声をいただき、安心して妊娠生活を過ごせるように助産師さんからのカウンセリングでもたくさんの力強いことばをいただきました。

さすがの医療体制。さすが沖縄。

今まで、東京で受けてきた雰囲気や声掛けとは全くちがう雰囲気に、「沖縄でよかった。沖縄だからこの赤ちゃんが来てくれたのかも」と思いました。

(ちなみに母子手帳の厚みも、町田市の2倍近い…充実のサポート体制!市役所の保健士さんのフォローや聞き込みもあったり、こういう体制あっての出生率だということを実感。もちろんつらい戦争を経て、新しい命の尊さを知る沖縄の文化、そして近所の知らない人も妊婦や赤ちゃんを助けてくれる温かさ…東京ではなかなか見られない昭和な?でも素敵な子育て応援文化には本当に感謝)

 

そして午後に出勤し、すぐにチームそして上司に報告をしました。

養子縁組がなくなったこと(=すぐに育休にはいることはない)、そして妊娠が分かったこと(=産休に12月から入ること)を伝えると、鳥肌が立つほど感動してくれて、全面的に応援してくれると声をかけてくれた職場には本当に感謝でした。

(この後、コロナ渦でチームの2人には妊婦の私を守り、負担をかけないように最大限の配慮をしてもらいました。)

この職場あっての妊娠であったことも確か。おかげでつらい時もありつつも、無事に34週まで大きなお腹で勤め続けることができました。

 

こうして、不安の中でも病院と職場という力強いサポート。

そう忘れてはいけないのはもちろん教会、特にスモールグループのメンバーの祈りという最強のサポートを得て、私の妊娠生活は始まりました。

振り返り①妊娠に気が付いたとき

それは6月でした。

私たち夫婦は6月から正式に特別養子縁組あっせんのリストに登録され、15日から受託可能であると伝えていました。なので6月に入ると赤ちゃんの紹介の電話をドキドキしながら待っていました。

幸いにも私の職場は(沖縄に移住後1年で教職を離れ、とある教育文化施設で働き始めていました…これもとてもドラマチックな出来事だったのですが…)この養子縁組に関しても物凄く応援してくれていて、登録の条件であった育休の取得にも全面的に理解をしてくれるというとてもありがたい状況でした。

しかし、新型コロナウイルスで全てが不確定な状況もあり、どうなるだろうという漠然とした雰囲気の中…私の体調がいまいち優れない日が続くようになりました。とにかく眠い…そして「もしかして?」の思いが過り、6月19日、思い切って産婦人科を受診しました。

 

待合室では恐怖しかない私。今までの経験が頭を過り、期待を打ち消す感情。ダメなときの自分への励ましをとにかく考える頭…そして、診察。

 

エコーにはしっかりした力強い心拍が映っていました。

しかし、産婦人科の先生は何一つ明るい言葉はかけてくれませんでした。

「とにかく1日も早く県立病院を受診してそちらにかかってください。うちではあなたのような超ハイリスク妊婦は受け入れられないので。」

そりゃそうだろう…と思いながらも、心拍を見ながら涙が溢れました。

そして指示通りに帰路、市役所で母子手帳を受け取りました。

(この時点でもう妊娠9週だったので。じつはもう少し前から気が付いてはいたけど、とにかく怖くて受診できなかった…)

 

そして、翌日。真実は小説より奇なり?

なんと養子縁組の団体から電話が!実は妊娠確定が金曜日だったので、土日に入ってしまい、私の方から電話をできず、週末が明けてから電話をしようと思っていた矢先でした。担当の方が淡々と、的確に紹介したい赤ちゃんの私たちに伝えうる情報をお話ししてくださりました。この時には私たちは実は、お腹の中の実子も育てつつ、養子縁組もできないものかという淡い期待もあったのですが、情報をお聞きした後に「実は…」と妊娠のことを伝えると、それは不可能だというお返事でした。裁判の過程で「実子がいるのになんでわざわざ?」ということになってしまい、手続きがうまくいかない世の中だということ…「今は、お腹の中の赤ちゃんのことだけを考えてください。」ということで、今まで長い期間をかけて準備をしてきた特別養子縁組のお話は中断することとなりました。

(しかし、この準備のステップは振り返ると何1つ無駄ではなかったと言えます。特に、2人で沐浴や離乳食の講座を受けていたこと、子供の理解の講座を受けていたことは、コロナのせいで両親学級がなくなってしまった中でありがたいことでした。)

 

ということで、お腹の中の赤ちゃんは養子で迎えるはずであった赤ちゃんの座を(?)払いのけてやってきた力強い赤ちゃんなのかもしれない…と思うに至りました。

 

 

神様のなさることはすべて時にかなって美しい

ずいぶんと時は過ぎた…

久しぶりに昔のことを思い出そうとブログをチェック。

きっと流産や死産で検索して読んでくださる方がたくさんいるのだろうな…

 

だからこそ書かなくては思い、久しぶりに書いています。

でも、思い返すと書いていなかったこの数年に起きたことがあまりにもドラマチックすぎて、一気には書けないな。

 

1つだけまずは書くとしたら、現在5回目の妊娠中。

自然妊娠、そしてもう妊娠35週を迎えました。

2500gも超えて今も元気にお腹の中で動いている女の子です。

あぁ、神様はすべて整ったと許されたところでこの新しい命をここまで育て、

育んでくださったんだと痛感しています。

 

私の祈りは

「神様、この命はあなたの与えてくださった命です。

あなたが育て、あなたが守ってください。

そして私たちにこの子を育てる力を下さい。

神様、あなたにすべてをおゆだねします。」

 

昔、よく何回も流産を繰り返した末に与えられた赤ちゃんの記事を読んで

「自分には起きないし、もういい。」と思っていた自分。

そんな自分にも完全にあきらめてから数年たってこんな日がやってくるとは。

大きくて重いお腹を抱えながらもまだ信じられない自分がどこかにいて…

 

産休にも入ったので、少しずつこの妊娠の記録を記していきたいと思います。

その後…「移住しました」

久しぶりの記録。

1月の流産後、妊活は辞めました。

まったく産婦人科には行っていません。

もう、妊娠しても「出産するため」ではなく「流産するため」に妊娠しているようなものなので、もう辛すぎる。だからもう積極的に妊娠を考えるのを辞めました。

後悔…するかもしれない。

迷い…ないわけではない。

悲しみや苦しみはいつも心の奥底に潜んでいます。

でも、産婦人科に行っても、もう前に向かって進んでいる気がしないのです。

だから辞めました。失うものも多いし。

 

1月からずいぶん経過しましたが、色々なことがありました。

特別養子縁組を具体的に考えたいと思い、資料を取り寄せ、ワークショップに参加し、勉強しました。

でも、それに向かってすぐに動けるような状況ではなく…

5月に東京から沖縄へ移住しました。

結局、決断をし、夫は3月いっぱいで、私は4月いっぱいで仕事を辞め、

夫は4月より、私は6月より沖縄で着任しました。

5月に1人で頑張った引越しは想像を超えた大変さ(海を越えて…フェリーでの移動)、マンションの借りて募集など…思い出すだけで吐き気を催す大変さでした。

正直、まだ沖縄には全然慣れておらず、毎日「東京に戻りたいなぁ」と考えております。まぁ、そんな簡単に帰るわけにはいかないけどね…涙。

 

昨日より教員として着任しましたが、1年ちょいぶりのフルタイム復帰。

もう少しパートタイムの恩恵を享受したかった(涙)そんな中で養子縁組の子とももっとじっくり準備したかったけど、ま、現実はそんな甘くないよね。

しかも、これは、こういう経験を通った人はきっと理解してくれるはずの皮肉かつ過酷な環境が待っていたという…私は今回「産休代替」という立場での引き継ぎ。

すごい皮肉(もう笑うしかない。笑)!流産がきっかけで決意して着いた転職先の立場は産休代替という。しかも引き継ぐ先生は妊娠8か月ということは1月に流産した赤ちゃんと同じ位という。

本当に元気な赤ちゃんを産んでほしいと心から願うし、その方には無理をしてほしくないと思いつつ、やっぱり自分との比較は…この状況、絶対に誰でもするでしょ。悲しいよ…着任して新しい環境では容赦のない「お子さんは?」「子供は何人いるの?(沖縄、噂通りのかなりの子だくさん。2人兄弟とか少ない方…妊婦を町で見かけない日はない。マジで沖縄、謎です。なんとなくウン十年まえの昭和な雰囲気がただよってはいるのだけど)」などの質問が来るわ来るわ。みんな何の悪気もないのはよく分かっています。

はやくこの環境に慣れ、この過酷な質問と状況にも何も感じない「石のような」心が欲しいと心から思っております。(すでに数年前よりも喜びを感じにくいという面では石のような心になってしまった気がするのだけど…動じないってことは上にも下にも心が動かないってことなんだろうなぁ…これも妊活で失ったものなのだろうか。)

 

手術が終わりました

1月17日。繋留流産による子宮内容物清掃術ということで、日帰り手術を受けました。

手術は午後の予定だったけれど、入院は8時20分ということだった。

夫も休みをずらしてくれたので、1日付き添うことに。

病棟に案内され、入った部屋は希ちゃんを出産した思い出の個室だった。

しばらくすると先生がやってきて

「最後に超音波で見ますか?どちらでも構いません。」

と聞かれた。

少し考えたけれど、結局見ても結果は変わらない…

辛い、申し訳ない気持ちを改めて思い出すのはつらいので、お断りした。

(実は帰ってきてから、もう一度だけ、超音波ごしだけど、会っておきたかったような気持ちもあるのだけど…)

点滴を開始して、手術は正午を予定しているという話だったが、

9時過ぎにもう一度先生が来て、

「手術室が空きました。今すぐ手術ができますが、どうしますか?」と…

正直、この待っている時間がとてもつらいので、すぐの手術をお願いした。

ということで、入院してからあっという間に、あれよあれよという間に手術室へ。

1回目の流産は緊急手術だったから、病棟の分娩室での手術だった。

なので、病院全体の手術室に通されるのは初めてだった。

テレビのドラマで見るよりももっとごちゃごちゃしていて、ものすごい大量の機械があった。そして、落ち着かせる効果?クラシックの音楽が流れていた。

手術台に横たわると、アッというまに色々な機械が付けられて、酸素マスクが付けられて、麻酔医の先生に「痛みを感じなくなる薬を入れますよ」と言われた。

少し咳き込んで胸が押さえつけられるような感じ…

意識は祈りに集中していた…

 

そこからの記憶は全くない。

気が付くとストレッチャーの上で「手術が終わりましたよ。目が覚めましたか?」と看護師さんに声を掛けられていた。

20分ほどの手術だったとのこと。

 

病室にはもう10時ごろには戻っていたと思う。

あっという間の出来事だった。

麻酔がなかなか効かなかったそうで、少し予定より多めに麻酔薬を投与されたせいで、

かなりずっとフラフラしていて、点滴ももう2本増量され、とにかく薬を体外に早く出そうということだった。

11時ごろにはもう一度先生のチェックと、膣に詰め込まれたガーゼを取り出して、消毒を受け、「もう9割がたは子宮の中は綺麗になっています。内膜を傷つけないように、1割は残っているけど、少しずつ出血と一緒に出てくるので、もう普通に生活をしていいですよ。」と説明を受けた。

結局、12時の手術予定は、12時にはすでに退院手続開始というスピードで終わった。

お蔭で、帰りには久々に夫とゆっくりランチもできた。

夫も付き添い、そして心配がずっと続いたみたいで、帰宅後は2人で爆睡。

気が付いたらもう7時を回っていました。

 

たぶん、これから女性ホルモンが妊娠時のときと変化するので、

それに合わせてものすごく落ち込むときが来るのかも。。。

それがすごく怖いのだけど…

そして今も心の奥底には色々な感情があるけれど、

今回は「そう2か月前に戻っただけなんだ」という気持ちもある。

 

実は半分勝手に夫が応募した私の転職の話が進んでいて、

しかも場所が沖縄という…かなり「いったいどうなる?」状態なので、

落ち込んでいる暇もないのだけど。

(ただ、4回の流産を経て、おもいっきり生活環境を変えてリフレッシュしたい気持ちは私もあるから、がんばっている。現実問題、持ち家であるこのマンションをどうするのか?そんな文化も違うような遠い南の島でどんな新しい生活が待っているのか?夫の転職は??など課題は満載なのだけど…)

 

ということで、これで私の4回目の妊娠も終わりを迎えました。

 

流産の確定診断

朝は8時からの受付開始ということで、8時前にK病院に到着。

診断開始の9時から1時間たっても呼ばれる気配はなく

(紹介状も持ってこなかったしね。仕方ないけど…)

死刑宣告を受ける前の嫌な気持ちで散々待たされる心境。

何をしてもあまり集中できないで、ため息ばかりが出る。

そして、診断。

2頭身で18mm程度まで大きく成長した我が子。

でもあるはずの場所に心拍はありませんでした。

子宮内胎児死亡という確定診断が下されました。

今回は予想通り、自然流産は期待できず、

子宮筋腫の上にしっかりと出来ている胎嚢と赤ちゃんなので、手術が必要だと言うことです。来週の水曜日。1週間後です。日帰りで、全身麻酔で、手術自体は5分くらいで終わってしまうもの。

 

淡々と。

粛々と。

全部、聞いたことのある説明だし、慣れた手順です。

手術のための血液検査、心電図、麻酔科の先生の説明、入退院手続きの説明…

全部終わったのは12時半ごろ。

疲れました。(その後、タクシーで職場に急ぎ、フツーに仕事をしたけどね。)

 

やっぱり、前回の「胎嚢だけで中は空っぽ」の流産よりも、

一度心拍も見えて、可愛い2頭身まで育った我が子なので、やっぱり悲しいです。

でも4回目は、それらを覆うような謎の心を守る、無にする防御反応が作動しています。

始めから、あまり期待はしないように、喜ぶことは本当に産まれてくれた日までとっておこうと思っていた。でもやっぱり心拍の喜び、自分の中に自分とは違う心臓の鼓動があることは、とても特別な思いになる。そこでやっぱりホッとしたのは真実。

だからこそ、なんか、床に思いっきり叩きつけられちゃった感じ(そのまま床に落とすんじゃなくて、振りかざして思いっきり床に落とされた感じ)もするんだけど、その一方、血も出てあざも出来ているのに「痛くないなぁ~変だな~」と言っているなんか特殊な(異常な)気持ちもあるのです。

そして、やっぱり産んであげられなかった、そしてまだ私のおなかにいる小さい我が子に対して、申し訳ない、ごめんなさいという気持ちがあります。会いたかった。

でも期待しないように、夢を描かないように…そんな思いの私がいけなかったのかな?とか。でも、年末年始だけは穏やかに過ごさせてあげようという心拍は神様のなんだか憐みみたいなものだったのだろうか…

 

分かりません。

何もかも、一生分からないのです。

なんでこんなことが起きつづけているのか…

でも淡々と、粛々と、さよならをしなくてはいけないのです。

すべてをリセットしたい気持ち

金曜日にもう赤ちゃんがダメなのかもしれない診断を受けて、

土曜日は仕事があったのでフツーに過ごしていたんだけど、

昨日の日曜日。礼拝に出かけて、帰ってきて、夜。

夫は飲み会に行っていていなかったんだけど、1人で犬の散歩をしていたら、

なんだか急に涙が止まらなくなった。

 

明日は成人の日で祝日なので、病院はお休み。

火曜日の午前は半休を取ったので、

K病院に行く(結局…K病院)ことにした。

担当の先生が外来に入っていたし、どうせもうダメならば、

結局ここに来なくちゃいけなくて、その場合の方針をさっさと聞きたかったのもある。

 

また。4回目。

1人であそこに行き、もう命のない赤ちゃんの様子を超音波で見て、

粛々と次のことを決める。

今回はちゃんと赤ちゃんの姿まであるから、自然流産じゃなくて、手術が必要なのかな…病院のベッド、点滴、処置…その1つ1つは経験済みだ。

でもこれら全部が経験済みだからこそ、その悲しさ、むなしさも一緒にすべてがこみ上げてきた。

 

普通はみんな我が子を腕にだっこする日を夢見て妊娠をする。

でも、わたしはこれじゃあ流産して辛い思いをするために妊娠しているみたい。

なんだか、もう今回は次を思い描くことができない。

体外受精をしても、流産は同じようにするみたいだし。

着床前診断も日本ではあまりにもハードルが高い。

もう。思い切って、人生を全てリセットして、新しい思いを持たなくてはいけないのかな…

 

そんなことを考えていたら、何故か、ほとほとこの国が嫌になってきた。

この国は「幸せ」のステレオタイプがあまりにも固まりすぎている。

特にこの住んでいる郊外の地域はそうなのかも。結婚して、子どもがいて、マイホームがあって…そんな「かた」が存在する。

産まない選択、養子を迎える選択…アメリカでは当たり前にみんなしていることが当たり前ではまだない国。多様性になってきたよね…なんて言っている時点で全然まだ多様性じゃないってこと。こんな国、こんな環境で、これ以上生きていくのは息苦しすぎる。そんなことが急に頭に浮かんでいた。

アメリカに戻りたい…

たぶん今は現実から逃げたいからそんなことを強く思うのだろうけど、

でも、海外で、新しい生き方を選ぶと言うことも、今年は真剣に考えてみるべきなのかも。

 

何にせよ、明日。診断に行ってきます。

8週2日

やっぱりダメかもしれません。

 

検診。朝から憂鬱な気分。

前回はしっかり心拍も成長も見られたけど、

安心なんてこれっぽっちもできない。

何を言われても落ち込まないように…傷つかないように…

まずは経腟エコー

「はっきり見えませんね。」

確かに…尿も溜まっているし、子宮筋腫もあるし、

これかなぁ?って感じにしか赤ちゃんは見えない。

そして経腹エコーへ

先よりははっきり見えたけど、なんとなくで、

大きさも14mm。1週間前からの成長が見られない。

何よりも心拍がどこにあるのかはっきり分からなかった。

明日からは3連休なので、連休明けに来てくださいという話。

 

やっぱり。

私のところに赤ちゃんはちゃんと来てくれないのかなぁ。

しっかり、覚悟しなくちゃ。4回目のさよなら…

 

ちなみにかゆみの原因は膣カンジタでした。

ついでにB型溶連菌(GBS)にも感染していたそうです。

両方ともに常在菌だけど、妊娠初期でいろいろ出てくるそう。

出産前には駆除、また対策が必要なものです。

私はそこまでたどり着くこと自体が夢のように感じるんだけど…

 

私が赤ちゃんをこの腕にだっこする日を夢見ることは許されないのでしょうか…

涙も出ません。

7週0日

予定では次の受診は来年だったけれど…痒い(涙)

ここ数日、デリケートゾーンのかゆみに悩まされております。

なんか重大なことになるのは嫌なので

(妊娠初期には良くあることらしいけど)

今日は仕事も早く上がれたのでいつものMクリニックへ。

学校でインフルが流行中なので→冬休みもうちは冬期講習中。インフル予防接種も兼ねていくことに。

 

かゆみはやっぱりまずカンジダを疑われるので一応検査へ。

でもおりものの感じではそうでもなさそう…ということでとりあえずはステロイドのお薬を貰ってしばらく塗ってくださいとのこと。

これで落ち着きますように!

 

そして、超音波も見てもらった。

初めて先生から前向きなことばを頂きました!

赤ちゃんの大きさは13.3mm。心拍も間違いなく確認できるほどに。

7週としては普通の大きさでひとまずは安心ですね。って。

私もモニターで少しずつ人の形になってきた2頭身の赤ちゃんに会えました。

「そろそろ母子手帳を取りに行ってもいいけど…前のこともあるから、年明けにしましょう。」と先生のお言葉です。

そう。まだ希ちゃんのことがあるから、心から喜ぶことも安心することもできないんだけど、前に進むことを少しずつ考えて行かなくちゃ。

さしあたっては出生前診断について。12週で受けることを考えると、もう1か月しか残っていない。人気の病院はもうすぐにでも予約が必要な時期…家族会議だなぁ。

ちなみに、先生からヨガOKを貰いました。

ジャンプしたり、無理なことしないならいいよ~って。

ストレスコントロールをしながら妊婦生活を過ごせますように!

(ちなみにここ数日つわりが始まってます。朝と夜…うえっ!っと。仕事中は緊張感があるのか大丈夫なのに、今日も学校を出た瞬間にうぅぅぅぅ…どうなることやら)

6週2日

前回のエコーで小さすぎるので覚悟を…と言われたので、

育っていなかった場合を覚悟して受診してきました。

生理周期では6週と2日目になる昨日。

 

最悪を頭に描いて…

何を言われても落ち込まないように心には完全なる重装備をして

内診台に座る。

 

エコー開始。

先生が「カーテンを開けていいですか?」

(このクリニックは先生側にしかモニターはないので、見せるときにはカーテンを少し開けてモニターをこちらに見せてくれる)

「胎嚢はちゃんと大きくなっていますね。これが小さいけど赤ちゃんかな?条件が悪いから(子宮筋腫がいつも邪魔している)診にくいけど…3mmかな?予想よりちょっと小さいけど見えますね。これも心拍かな?」

あれ?私の目にもしっかり見えるピコピコした動き!

先生ははっきり言わないけど、あんな動き、赤ちゃんの心拍以外に子宮の中にあったら怖いし…笑

 

ということで、最悪の結果は避けられました。

この1週間、もうダメなのを覚悟して、半分ヤケになって、結構激しいヨガをやってしまった…でも、ちゃんと心拍のようなものが見え、胎嚢も18.6mmに。希ちゃんの時よりも少しだけ大きい計算。

先生からどこの病院で出産するかという話もしつつ、また年末の休診期間は心配だけど、次は年明けでも大丈夫ですよ。とのことでした。

 

もちろん…それでも心配はぬぐえないし、妊婦の幸せにはまったく浸れない4回目の妊娠だけど…つわりもちょっとはじまっても今までの中で実は一番健康的には(そして気持ちの部分でも)安定しているので(ヨガのおかげかなぁ?陰ヨガは本当に気持ちがいいし、身体が整えられていく感じがたまらない!)このまま、年末年始の忙しさはあるけど、淡々と1日1日を過ごしたいと思います。