入院までの数日間
12月5日の入院までの数日間。
不思議と今までよりも涙を流すことは少なかった気がする。
とにかく、母親としてしっかり出産しなくてはいけないという気持ち。
でも、身体はとても正直で「もう妊娠は終わったんだよ」と言わんばかりに流産の気配も感じていた。
妊娠中はいつも体が温かかったのに、寒気を感じたり、
少しだけ出血も始まっていた。
夫に誘われて一緒にゆっくり歩きながら犬の散歩に出たり、
近所に買い物に行ったり…
あとは家で静かに過ごしていた。
そしてまた同じように「子宮内胎児死亡」を経験された方々のブログを読んで、自分たちにこれから起きることを冷静に考えたり…
あとは入院の準備を少しずつ進めていた。
我が子のように過ごしている愛犬としばらく会えないのがとってもさみしい。
入院の前日、やっぱりこらえていたものが噴きだしてお風呂の中で涙がこぼれた。
よく夫と「お風呂も賑やかになるね」なんて話をしていた。
一緒にお風呂に入れて、お風呂の中でも子どもの成長を感じるんだろうな…と楽しみにしていたから。
でも、今はまだお腹のなかにピコちゃんはいて、夫と3人でお風呂に入っているのはとても大切な時間だった。
いよいよ明日は入院。
しっかり頑張らなくちゃ。
11月30日 入院受付やその他事務的なことについて
診断後、すぐに入退院窓口に行き、手続きを行い、説明を受けた。
そこで、費用の確認も行ったところ、12週以上の分娩なので「出産一時給付金」の対象になるということだった。また、その「直接支払制度」の対象となる病院のため、そのための書類にサインをした。つまり42万円の給付を超えた分は自費で支払う事となるが、42万円以下の場合は後で戻ってくることになる。
また、この窓口で部屋の希望も聞かれたが、やはり、今回は死産という事で心理的にとてもつらいものなので、それを配慮してくださいというリクエストをした。
職場には「次の診断(つまりこの30日)までは確実に休むけど、それ以降はその診断次第」と伝えていた。(なので、翌日からは私が戻ってくると子どもたちには伝わっていたみたい…翌日にお見舞いのポインセチアを職場の方が持ってきてくれたのだけど、そこに「おかえりなさい。6-1(私の担任のクラス)より」というカードが添えてあった。切なかった。)
帰宅後に電話で、まず今後のことを人事・総務の担当の方に電話で相談した。
というのも、医師は「退院後医療的には別にすぐに職場復帰しても構いません」と言っていたのだけど、色々な検索を見てみると「12週以降は出産扱いなので、労基上2か月の産休が必要」とも書いてあったので、果たして私がいつまで休むべきなのか?明らかにしたかったから。担当の方はすぐに社労士の方に連絡を取って調べてくださった。折り返しの電話で、やはり、私のような労働者は(恐らく自営業の方々はそんなこと言っていられないと思うからまた別の話になってしまうのだと思うが)法律上、8週間または医師の許可によっては6週間、労働が禁止されていると伝えられた。また、その間は産休扱いなのでお給料の3分の2が健保から支払われるとのこと。丁寧に説明をしてくださり、書類を送ってくださるとのこと。
つづけて、事情を上司である校長に電話で伝えた。
「かける言葉が見つからないけれど…体を大事にしてください。」と。
とにかく学校は「師走」という言葉があるように、本当に大変な時期。
申し訳ない気持ちと、でも、気持ちの問題としてすぐの復帰はあまりにもキツイとも考えていたから安どの気持ちもあった。
それから、私は女性のための医療保険EVERに加入していたので、アフラックにも電話して書類を取り寄せた。入院給付金と女性のための疾病特約給付金が受け取れるため。(医療保険上は、異常分娩というカテゴリーになるため)
こうやってバタバタと1つ1つのことをこなした。
そして夕方過ぎに、夫が
「あのさ、今日…病院で、診断受けて、先生のお話し聞いているとき…社会の窓が、全開だった。」と…衝撃の告白を受けた。
2人で大笑いした。泣くほど笑った。
こんな時も2人で笑えるって、本当に感謝だ。
「2人でがんばろう」これがいつの間にか合言葉みたいになっていた気がする。
11月30日 子宮内胎児死亡の診断
11月30日。相模原K病院。
何故か勘違いして予約時間より1時間早く受付を済ませてしまった。
でもなぜかすぐに呼ばれた。
診断の前にO先生には先週にFMCで受けた診断の内容を伝え、報告書を渡した。
すぐに経腹エコーをすることになった。
私は覚悟を決めて横になった。
そこには今までピコピコと動いていた心臓の動きはなく、
ピコちゃんは静かに羊水の中に浮かんでいるようだった。
私の目で見ても、もうそこに命がないことが分かった。
O先生はまたすぐに指導医的なN先生を呼んだ。
血液の流れを映すモードに変えてもエコーには何も映らなかった。
「恐らく、もう赤ちゃんの心臓は止まってしまっています」
頭の上で同じ画像を見つめていた夫が静かに私の手を握っていた。
「すぐに赤ちゃんを外に出す処置をしなくてはいけないので、今から入院の予定などを確認するので待合室でしばらくお待ちください。」
私達は2人で静かに診察室を後にした。
私の中では「あぁ…やっぱり。ピコちゃんはもう苦しんでなかった。天国に行っちゃってたんだ…」というなんだかポッカリと心に穴が開いたような放心状態だった。
でも、その私の分の涙を夫は隣で静かに流していた…
再び呼ばれて、診断書が渡された
「子宮内胎児死亡による人工流産」と書かれている。
入院日は翌週の月曜日12月5日に決まった。
まず、5日にラミナリアを挿入、子宮口を開く処置を行う。
翌日から陣痛を行うための薬を膣に入れ、分娩。
早ければ翌日には退院できるので、最短で2泊3日の入院という説明だった。
お腹の中で死んでしまった赤ちゃんは外に出るために自分の身体を少しずつ溶かしていくとも聞いていた。早く出してあげたいとも思った。
(でも裏腹に、ずっと一緒にいたいという気持ちもあったのだけど。)
とにかく、私の中でこの診断日から入院・出産までの間は
「私のできる、この子への最初で最後の仕事はこの出産だ。痛くても何でもしっかりやらなくては。」という不思議な緊張感でいっぱいだった。
胎児診断後~次の診断まで
女性の身体は本当に不思議だなって思う。
11月22日に絶望的な診断を受け、次のK病院での妊婦健診まで8日ほどあったのだけれど、その間に、私の身体はどんどん動かなくなっていった。
近くのスーパーに行くのもやっと。
帰り道に自分の身体のあまりの動かなさに不甲斐なくて涙が出るときもあった。
でも、この1つ1つの怠さや動かなさは1回目の流産の前兆にとても似ていた。
だから、この8日の間のどこかの時点で私は正直、もうピコちゃんの心臓は止まってしまっているだろうという感覚がどこかにあった。
ちなみに血圧はさすがにこの胎児診断直後はストレスから一時的に上昇。でもまたそのあとは安定していた。
そしてとにかくこの間に私は色々な感情を通った。
ぼーっとしていると色々考えてしまうので、それが嫌だから、今までほとんどやっていなかったZOO KEEPERというパズルゲームにハマってみたり、相変わらず同じような経験をした人はいないか…検索魔として過ごしていた。
(そして、相変わらず1日1回はメールで仕事もしていた)
通った感情は
①私は何か悪いことをしましたか?という怒り
流産(死産)はみんな語らないだけで、10回のうち1~2回の高確率で起きることらしい。でも私は2回もこの少数派に入ってしまった。何故?
もちろん年齢(39歳)の影響が大きいことも分かっている。でも、私はここまで真剣に生きてきただけで、いたずらに先延ばしにして妊娠が今になってしまったわけではないのに…神様なぜですか?!私はクリスチャンなので、生意気に、でも正直に神様に「なぜですか?なぜですか?」と問い続けた。(今も問い続けているのかもしれない。振り返って書いている冷静な自分は「罪人が何を傲慢な!」なんて恥ずかしく思ったりもするのだけど…)聖書の中には同じように苦しみを通るときに「主よ、何故ですか?」と叫び続けている人がいる。まさしく彼らとおなじように叫び続けていた。
(死=人の罪=神様の義から離れて勝手に生きることを選んだ人間に与えられた罰。神学的な答えはできるし。分かっている。それを真実だと思い、信仰は変わらずに持っているけれど…神様が私たちのことを愛しているのに、なぜこんなに悲しいことが起きるんだろう?!そしてテレビでは子供を手放したり、無計画に作って虐待なんていう報道が毎日されている…なのに。なぜ?こんなに待ち望んで楽しみにしていた私たちにこんなことが起きるの?という怒りも通った。。。)
②自分の弱さに対する失望感
ふと…こんな今の辛い状態が続くのであれば、早く流産してリセットされたほうが楽なんじゃないか?という思いが湧いた自分にびっくりして、そして最悪だ!と思って泣き崩れることもあった。
③夢が閉ざされた絶望感
妊娠が分かってからの数か月間、やっぱり産まれてくる赤ちゃんを思って、成長する赤ちゃんを思い描いて、3人と1匹でどんな生活が待っているんだろう?夫婦で楽しみにして過ごしていた…この1つ1つのシーンはえも言われない、とってもとっても幸福感のある時間だった。でも、もうその思いは現実にはならないんだ…という悲しみ・喪失感がなによりも大きいものだった。
寝る前、そして外が暗くなるといきなり泣き始める私のそばに夫はいつも寄り添ってくれた。動けない私とゆっくりゆっくり一緒に歩いてくれた夫。
それは本当に本当にありがたかった。
こうやって11月30日の予約検診の日がやってきた。
すでに夫にも「なんかね…もうダメな気がするんだ」と伝えていた私。
覚悟をしてその日を迎えた。
11月22日 胎児診断へ③
クリニックを出ると、久々の都心。
そこを私はポタポタと流れる涙と一緒に、夫に手を引かれて歩いていた。
でもお腹が空く…
駅前のロイヤルホストで、久々にあまり塩分を気にせずに食事をした。
(仕事を休み始めてから、とにかく1日6g!の減塩自炊を心がけていたから。ちなみに、ロイホは他のファミレスと違って、塩分量が少ない…さすが、ちゃんと調理しているファミレス。価格も高いけどね。)
バカみたいに大きいチョコレートサンデーも食べた。
住んでいたアメリカが懐かしいなんて言いながら…
食事中はなんだか夫といろいろ話しながら何だか少し笑ったりもした。
でも、トイレに1人で行って、少し大きくなったお腹を鏡で見たら、また何だか泣けてきて、声を上げて泣いてしまった。
そして、帰りはとっても混んでいた電車に揺られ(マタニティーマーク特権で、シルバーシートに座らせていただきながら。立っていることはとてもじゃないけどできなかった。)帰宅した。
そして、夫と2人で声を上げて泣いた。そして泣き疲れたように寝てしまった。
この後の数日間、私はなぜか夕方位になると毎日のように声を上げて泣いていた。
カウンセラーの方の言っていたように私の中には本当に色々な感情が代わる代わるやってきた。怒り、悲しみ、喪失感、、、本当に色々な思い。
でも1つ。夫と約束したことがあった。
それは「自分だけを責めないこと」
夫も私も、元々自分を責めて責めて落ち込んで取り留めもなく落ち込んでしまうことが今までにもあったのだけど、その結果何かいいことがあるかと言えば…ほとんどない訳で…
今回の赤ちゃんのことも、自分を責めても何も現状は変わらない。
今は2人で支え合って、前に進まなくてはいけないから、
「自分を責めない(なぜか、責めたらハーゲンダッツをおごるというユルイ決まり付き。)」という話をした。
そしてもう1つ、これは出産・火葬を終えて振り返っている今も言えることだけれど、今回のこの1つ1つの出来事を通して、私は本当に夫に心から感謝しているし、愛されていることを日々感じることができた。
11月22日。皮肉にも「いい夫婦の日」。
2人にとってはあり得ないほどの悲しみのどん底の日だったけれど、
今日の診断中もいつも私の手を取って支えて励ましてくれた、
また、先生にも私の体に危険がないか?私の命は大丈夫なのか?それをいつも聞いてくれた、
泣いて仕方のない私のことをしっかり見てくれた、そして一緒に泣いて気持ちを受け止めてくれた夫に心からありがとう、出会えて、この人と結婚して本当に良かったと思う「いい夫婦の日」だった。
11月22日 胎児診断へ②
エコーの画像が見られるように薄暗い、でも落ち着くような雰囲気に作られた診断室へ。そして先生はすぐにお腹にジェルを塗ってエコー診断を始めた。
まずは3つある私の子宮筋腫を測定していた。
その間にピコちゃんの姿が見えていた。
動いている。
心臓もまだピコピコ動いている。
良かった。まだ生きていてくれている。
今までの病院よりもさらにクリアな画像が目の前には映し出されていた。
でも…先生の顔は厳しかった。
そして、やっぱり…NTはしっかり存在していて、前回よりも肥大して8mm。
次に先生はエコーを拡大して色々な部分を測定していく。
例えば鼻骨。これは21トリソミーつまりダウン症候群の判断の材料になる。
鼻骨は「あり」
そして先生は色々な画面を使って、ピコちゃんの心臓や血液の流れを調べ始めた。
心拍数は正常範囲…でも
「かなり血液が逆流してしまっています…そして通常3本あるはずの臍帯血管も2本しかありません。心臓も拡大しているし…元気がないよね。」
私達はとにかく先生の言葉を受け止めるしかなかった。
最後に3Dで写真を撮ってくださった(これは本当に私たちの宝物になるのだけど)。
そして診察台を降りて、夫の横に座って先生の話をもう1度しっかり聞くことになった。
「残念だけれど、赤ちゃんはもうかなり弱っている。恐らく、このままお腹の中で死んでしまう可能性がかなり高いと思います。この後、絨毛検査もできるけれど、もしもお2人がこのまま中絶も考えていないのであれば、今は受けずに、15週になれば羊水検査を考えてもいいし、経過を見ていくしかないと思う。恐らくかなりの確率で染色体の異常が見られ、心臓が正常には動いていない。」
私達も様々な質問をした。
先生はその1つ1つに丁寧に答えてくれたけれど、
その答えの中に1つも望みを与えてくれるものはなかった。
それでも、ピコちゃんの心臓は今日はまだしっかり動いていた。
でも…覚悟をしなくてはいけない。
もしかしたら明日にでもこの心臓は止まってしまうのかもしれないと。
診察室を出ると、私たちは呆然と椅子に座った。
すると、先ほど説明をしてくれたカウンセラーがやってきて
「大丈夫でしたか?とてもつらいお話だったと思いますが…お話を聞きますよ。」
と、声をかけられた。
私達はその場で色々な質問を繰り返したけれど、その場には数名の夫婦もいたので奥のカウンセリングルームに移動した。
そこに座ったら…
今まで我慢していた何かがこみ上げてきて、涙があふれてきた。
カウンセラーさんは「いいんですよ。思いっきり泣いて。おそらくこれから色々な感情がこみ上げてきます。でも、それは何一つ間違っているものではないから、泣いて吐き出していいんですよ。」と言っていたような気がする。
私達はここでも本当に納得するまで色々な質問をして答えていただいた。
そこには、もしもこのピコちゃんが死んでしまったとして、つぎの妊娠をどうとらえるべきか?もしもこの原因が親である私たちにあるのであれば…そんな質問もあったように記憶している。
「恐らく、今回のことは私達にはまったくコントロールできない染色体異常が原因で、親の遺伝が原因であることはほぼないし、母親が何かしたからということもまずない。しかし、今回のエコーだけでは何が原因なのか確定診断は出来ない。でも羊水検査や絨毛検査は赤ちゃんの細胞から染色体を見るので、確定診断ができる。そしてもしも今回、死産となれば赤ちゃんと一緒に出てくる胎盤でも判断ができる。」
このような説明をうけた。
そして、私達は詳しく書かれたデータとエコー画像のUSBを受け取り、クリニックを後にした。
(ちなみに、今回のお支払いは56700円でした。
そして、今振り返ると、この診断を受けて本当に良かったと思っています。
まず、この時が動いている赤ちゃんに会える最期のチャンスだったから。それを鮮明な画像で見られたのは本当に良かった。そしてこの後の死亡の診断までに、しっかり心の準備が出来たから。良い決断だったと思っています。)
11月22日 胎児診断へ①
11月22日。
久しぶりの遠い外出。
先週から6日間ほど自宅安静ということで過ごしていたけれど、
なんだかずっと怠かった。
でも血圧は実は安定していて家で測定するとあまり高くはない。
つわりはもう終わった感じなんだけど、とにかくだるくて歩くのも辛い。
そんな感じだった。
幸いにもFMC東京クリニックのある九段下は我が家から電車で1本だった。
到着すると、まだ移転して新しいクリニックは白を基調としたとても綺麗で落ち着いた雰囲気、とても静かな場所だった。
程なくするとまず「カウンセラー」の女性からこれから受診する診断の説明やヒアリングがあった。1時間位、とてもじっくりと。
すでに私は検索魔だったから色々なことは頭に入っていたけれど、改めて非常に分かりやすく説明してもらい、資料も受け取った。
これから行う診断は経腹エコーだけれど、それを日本では数名しかいないNT診断の専門医が行うこと。そしてそのNTが何ミリだと、どれくらいの割合で染色体異常が見られるか…など。
また、その染色体異常には13・18・21トリソミーがあり、それがどれくらいの割合で起きるのか?またトリソミーはなぜ起きるのか?そしてその赤ちゃんはどうなるのか…など。
そして、今日受けるエコー検査の後、どんなオプション(絨毛検査・羊水検査)があるのか…
とにかくたくさんのインフォメーションを私たちが分かるまでしっかり説明をしてくれた。
そして、これは前にK病院でも聞かれたけれど「異常が見つかった場合にどうしますか?」ということに関しては非常に厳しい口調で、私達の決意を問われた。
私達は変わらず「命がある限りしっかり産んで育てたい」という覚悟を伝えた。
また、私達が教員であることを伝えていたので
「色々な子どもたちを見ておられるお2人でも、その決断は変わりませんか?」というような聞かれ方もした。
でもこれも色々な子供を見ているからこその私たちの決断であることを伝えた。
(でも、私も今回、これは色々な検索をして、頸部水腫やヒグローマがひどい赤ちゃんを泣くなく「もうこれ以上苦しい思いをさせたくない」と中絶するお母さん、そして産まれてからのことを悲観して、また家族の説得で中絶を選択するご夫婦もたくさんいると知った。そして…私はクリスチャンだから、今までもこれからもこの神様が与えてくださった命を自分の選択で断つということは絶対にないと思うが、でも悩んで、泣いて、中絶を決意されるご夫婦の気持ちも痛いほど良く分かったし、絶対に責めることはできないと心から思った。)
一通りの説明を受け、同意書に署名をしたのち、
いよいよ院長の診断を受ける時が来た…
検索しまくる。
NT、赤ちゃんの様子があまり良くないかもしれないと告知され、
仕事も休むことになってから、
時間もあるので、色々な検索をしまくった…
NT
ヒグローマ
胎児診断
…
希望が持てるサイトもあれば、
覚悟をしなくてはいけないと思わせるものもある。
でも、とにかく今私たちにできることは何だろう?
そう考えると、やはりもっと専門的なお医者さんに診てもらうべきではないか?
という結論に至った。
もしも羊水検査を行う事となっても、流産の確率がない訳ではない。
だから、出来るだけ信頼できる所で受けたいし、
障害を持った状態で産まれてくると分かれば、
やはり最大限の準備が整った病院で出産したい。
そして。。。
やっぱり専門の先生に…少しでも望みのある言葉をかけてほしいという気持ちもあった。
そこでまた胎児診断の病院や体験談を検索し…
どうも一番有名な先生は大阪にいることが分かった。
東京からわざわざ新幹線で泊まりがけで行く人もいるらしい。
でも、最近の情報を検索するとどうも東京にもかなり経験豊富な先生もいるらしい。
ということで、私達はまずFMC東京クリニックにダメ元で電話をすることにした。
ダメ元というのは、口コミでは胎児診断の予約はみんな妊娠が分かった時点で行うため、いつも予約がいっぱいだとあったので…
電話をかけてみる。そして事情を話し、今すでに12週であることを伝えた。
(というのも、このNT:頸部浮腫の測定は12週が最適であり、基準。13週だと判定としてはギリギリ。また、13週末まではギリギリ羊水検査ではなく、絨毛検査が行えるギリギリのラインなのだ。)
そうすると、非常になれた感じの電話受付の方が細かいヒアリングを行い、「カウンセラーに確認してから折り返します」と伝えてくれた。
すると、すぐに電話がかかってきて。
「予約を取ることが出来ました。来週の火曜日、16時からでしたら大丈夫です。その前に、この前の検診で撮ったエコー写真をメールで送ってください。そして当日は問診票にすべて記入をしてから10分前に受付をしてください。」
という丁寧な案内があった。
こうして、私達は詳しい胎児診断を受ける決意をした。
11月16日 不安が増大した日(後半)
エコーが終わり、また待合室で長いこと待たされて、ようやく名前を呼ばれた。
診察室に入ると、まず私の血圧がとても高いこと、また、かなり疲れが見られること、あとは子宮筋腫が3つあり、1つは子宮口に近いから分娩もおそらく帝王切開になるということを告げられた。
まずは血圧をしっかり管理するように指導を受けた。
実は前にも何回か血圧のことを指摘されたことはあった。
なので、自宅でも測定はしていて、実は家ではあまり高くないのだ…
でもここ数日は家でも高い…その原因はストレスと疲労であると感じていた。
そこで今自分の抱えていることを先生にお話しすると。
「とにかく、診断書を書くから、休みましょう。そして様子を見ましょう。」
頭の中には「あぁ色々な人に迷惑をかけてしまう」という感情と
「解放される。これで出産に向けてしっかり体を整えられる。」という安ど感が入り交ざっていた。
妊娠高血圧合併症。
ということで次の2週間後の検診までは仕事は休んでください。
そう伝えられた。
そして「他に気になることはありませんか?」と先生に聞かれて。
「先生、前回の診断で赤ちゃんの首の後ろに浮腫があるかもしれないと言われたのですが…」と伝えた。
先生の手元にはすでにエコー室で撮影した画像がかなりの量で送られていたのに、先生は気づいていない…大丈夫なのかな?と思いながらも、念のため伝えた。
「じゃあ、診てみますね。」
そこで先生にも見てもらうことに。
「う~ん」
O先生はまだ若い感じの先生でよく判断できないようだった。そこで奥にいた指導医っぽいN先生が呼ばれた。
そしてN先生の顔色がすぐにひきつった…
「ちょっとこっち。エコーこっちに動かして。」
O先生に色々指示をだす。
そして2人で話をするのがすぐ横で聞こえる。
「NT」「ヒグローマ」・・・
この時点であまり聞いたことのない言葉だったけれど、
あまり良くない話なのはすぐに気が付いた。
すぐ横にいる夫も私の手を握りながら不安そうな顔をしていた。
「ちょっと診断書を書くので、外で待っていてください。」
しばらくして呼ばれて伝えられた話は以下の通りだった。
①頸部浮腫(NT)が6.7mm、この数値はかなり大きく、65%以上の確率で染色体異常が疑われる。
②経過を観察し、15週になってから羊水検査を薦める
最悪の場合はお腹の中で亡くなってしまうということ。
かなりの確率で障害があるということが伝えられた。
私達夫婦は前から何回か話す機会があったのですぐに2人の意志として
「障害があっても、生まれてきてくれるのであれば、命のある限り育てます。
そのために最善のことをしたい。」と伝えることができた。
先生からは羊水検査をすることによって育てるに難しい障害が分かれば、そこで中絶することについても伝えられたけれど、私達にはその選択肢は始めから存在しなかった。
それでも羊水検査をするメリットは「産まれた時に最大の準備をしておくことができるから」だと説明を受けた。
とにかく、その日はそれで終了。
2週間後にまた様子を見ましょう。ということで、終わった。
もう時間は夕方を廻っていた。
私はいったん職場に戻り、明日からまずは2週間お休みしなくてはいけないことを校長に伝え、引き継げる部分は準備をして帰宅した。
頭の中はぼーっとしていた。
でも確かにまだ私のおなかの中でピコちゃんはしっかり生きている。
心臓も動いている。
手も足もパタパタとかわいく動かしていた。
ほんの少しだけど胎動みたいなものも感じている。
奇跡も起きるかもしれない。
そんなことを思いながら過ごしていた。
11月16日 不安が増大した日(前半)
この日、自分の受け持ちの6年生は卒業アルバムの個人写真撮影があった。
みんな本当に可愛くて、大きくなったな…もう卒業するのか…
とても感慨深くその撮影を見守った。
担任の自分の写真も撮影してもらい、この日はそこで早退。
紹介状を持って出産を予定していたK病院へ。
すでに10:30の時点でものすごく込み合っていて、婦人科はもう外来をストップしていた。でも産科なのでセーフ。
夫も病院まで来て、2人で長いこと待合室で待っていた。
ここではエコーは医師ではなく、技師が行うという事で、まずは2階のフロアへ案内された。
エコー室は病棟の奥にあった。
ここは1回目の流産の思い出の場所だった…
なんだかすごく複雑な気持ちがよみがえってきた。
1年と少し前…1回目の妊娠。でも、いくら待っても胎嚢が見えなかった。
でもhcgホルモンはどんどん上昇して、子宮外妊娠も疑われた。
そこでこのK病院にお世話になっていた。
結局、掻把手術を予定していた前日に突然の腹痛(実は陣痛だったのだけど)。
そのままタクシーで病院に向かい、1階の受付前で倒れた。
そしてそこで流産→処置→入院という経験をしていた。妊娠8週目の出来事。
結局前回は1度も赤ちゃんの姿に会うことなく流産してしまった。
それでもそのショックは大きくて、そのあと私達夫婦は色々な感情を乗り越えた。
そこで、ようやく与えられたピコちゃん。
しっかり胎嚢も育ち、心臓も動きはじめた。ピコピコピコ…
それを見た時、私は涙が自然と溢れてきた。
あぁすごい!私の中に私とは違う命が住んでいる。
その小さい姿は、本当に言葉で表せない愛おしさだった。
エコー室では今までのクリニックとは違う鮮明な画像でピコちゃんを見ることができた。足と手をパタパタと動かして、時々指を口に入れているように見えた。
すごい。
12週と4日ですでにもう「赤ちゃん」の姿がしっかり出来上がっていた。
でも、すでにこの時、
もしかしたら、ピコちゃんはすごく苦しんでいたのかも…
「なんだかうまくいかないなぁ」って悩んでいたのかな?
それが次の医師の診断で明らかとなった。