クリスチャンと流産
今回の妊娠の数週間で色々考えていたことがある。
クリスチャンとして、私はこの状況をどう捉えるのだろう?
もちろん、この悲しみや苦しみはクリスチャンだからとかそうじゃないからとかで違いはないと思う。でもこの状況をどう捉えるかには違いはあるはず。
正直、私の長い長い教会生活の中で「流産」や「死産」を語る人に1人も会ったことがなかった。
そして、「クリスチャン」「流産」で検索してもほとんど有益なヒットがない。
(私のこのブログが上位になっちゃうくらいだし!)
これはもちろん日本というクリスチャン人口が1%以下の国だからで、英語で検索するとそれなりにたくさんのサイトがヒットする。
私は、前回の死産の中で、教会の中で自分がこれ以上傷つきたくないと思い、母教会からは離れてしまった。教会に繋がりたい。クリスチャンの交わりに繋がりたい。共に祈る、共に涙する、共に神様に向かう存在を心から求めているのに、その場所に行くことが出来ない自分がいる。なぜか?
それは、日本の教会が「家族」を中心としているから。そこには健全な夫婦と、子どもがいて、その単位が集まってコミュニティを作っている。それが圧倒的なマジョリティなのだ。もちろん、そうでない「都市型」の教会もあるのだけど、それは本当に都心に多い。そんな「家族」が中心の教会にこんな風に流産を繰り返している私が行くのは…正直とっても勇気が必要なのだ。そうすると、家で1人で聖書を読むほうがいいよ…ってなってしまう。もちろん、教会の大切さ、教会で神様を賛美し、礼拝する大切さは100も承知なのだけど。
そんな中で、今回、やっぱり思ってしまった。3回目の流産。神様は母の胎内にいるこどものこともご存じで形作られているお方だって。でも…なんでその命は3回も奪われ、私は会うことが許されないなんて…神様、ひどい。って。
今回は子供が生まれてくるワクワク感は極力感じないように努力をしている自分がいた。また奪われたらその分、悲しすぎるから。最悪のことがあっても大丈夫なようにいつも喜ばないような心のセーブをどこかに持っている自分がいた。
こんな自分になってしまった、悲しさがあった。
私が何をしたって言うの?なんの仕打ちだ?思わないわけがない。
そんな中で、「神に失望したとき」というフィリップ・ヤンシーの本が、読まずにずっと置いてあることに気が付いた。そこには、同じように「なぜ私ですか?」と叫ぶ信仰者、そしてヨブをどう捉えるのか?が書かれていた。
読んでよかったと思うのは…。
神様は決して、これを懲らしめとして起こしているのではなく、むしろこの状況を私と一緒に涙して悲しんでおられるお方だというところに帰れたこと。
そう。神様は「死」というseparation=分離を喜ばれることなど決してない方。
だからもう一度、神様お願いです。もうこんな涙を何回も流したくないのです!と祈ることができた。
とにかく。クリスチャンだって、クリスチャンじゃなくたって悲しみの深さ、辛さ、行き場のない怒りや遣るせなさ…流産を通して通るたくさんの感情は同じだと思う。
でも、クリスチャンとして…全知全能の神様の涙を、自分の近くに感じることができたのは感謝だと思った。
そしていつか、教会という場所じゃないかもしれないけれど…同じようにクリスチャンで流産の悲しみを語り合い、祈りあえる時が欲しいと心から思っている。