12月15日 回復と落ち込み
妊娠してからしばらく行っていなかったジムへ行った。
元々エアロビクスが大好きで上級クラスでクルクルと踊るのがストレス解消だった私は、さすがに上級クラスはまだヤバいと思って、初級クラス45分。
やっぱり体を動かすと気持ちがいい。
お医者さんにも体を動かした方が子宮にたまってしまっている血を出す助けになると言われていたのだけど、その言葉通り、夜に夕食の準備をしているとまた血の塊が出てくる感覚…その後、また一時的に血がたくさん出てきた。(その血の出方が今回も尋常ではなく、変な話トイレが血だらけになったりする程で、それはそれで結構焦るし、気分も悪くなる…涙)
これで2回目だったし、やはりしばらく横になっていたら大丈夫だし、とにかく子宮にたまってしまうは嫌なので…
でも、夜にはなんだか気持ちが落ち込んでしまった。
私、何やってるんだろうなぁ…
世の中は来週末にクリスマスを迎えるのか。
ちょっと頑張ってツリーも出してるし、クリスマスの讃美歌を口ずさんでみる。
でも、なんだか気持ちが晴れない。
2か月の産休が死産であっても義務付けられているみたいだけど、
生産であれば、お母さんは自分の身体の回復と赤ちゃんを育てるので、本当に毎日色々大変だろうけど、前に向かって進んでいる喜びがあるのかな…でも、私は毎日、家で身体の回復を待っているだけで、何なんだろう。
仕事をしている方が辛いことを考えなくてもいいから楽なんじゃないだろうか?
と、思わなくはない。
今まで散々忙しく働いてきたんだから、この休みをギフトとして感謝して受け取ったらいいんだとも理解しているけれど、
なんだかポッカリと喪失してしまった何かがあることに向き合わなくちゃいけないのはつらい。
アメリカ行きたいなぁ…とか、ここに行きたいとか、あそこに行きたいとか…
思ったりしても、実行力にも欠けている。
時間があるから昔にあった色々なことを思い出してみたりもする。
数年前にアメリカから帰国したとき。
アメリカに残る準備をしていたのに、道が閉ざされて日本に帰ってきた時。
私は本当に自分の人生は真っ白の白紙になったと思った。
何をしていいのかもわからないし、私っていったい何のためにここにいるのか?
よく分からない…
久しぶりにその時と同じような気持ちになっている自分がいた。
これから何をどうしていけばいいんだろう?
何もしたくないけど、何かをしなくてはいけないような気持ちもあり、
何かをしたいけど、何もできない気持ちがする。
とりあえず前にあること…
いままでやりたかったのにできなかった
掃除や洗濯や、ものの整理…
1つ1つをやっていくしかないのかな。
華やかなクリスマスの季節から
置いていかれてしまったような鬱状態から
どうやったら抜け出せるのかな。
しっかりしなくちゃ…
12月13日 1週間後の検診
12月13日。
出産1週間後の検診予約が入っていた。
退院時に本当は1か月後だけでもいいと言われていたけれど、心配なので1週間後にもお願いしていた。
予約を入れていて良かった。
実は前日の夜にいきなり大きな血の塊が出て、そのあとしばらく大量の出血があった。また、入院してから血圧が下がらないのと、片頭痛もひどかったので不安をしっかりお医者さんに伝えることができた。
経腟エコーと内診で診てもらうと、子宮内にまだ血の塊が残っているから排出されるだろうということ…まだ2週間くらいは出血は続くらしい。
血圧が心配なので子宮収縮薬を使わずに自然に排出することを待つことになった。
また、血圧に関しても、妊娠が1つのスイッチとなって高血圧になってしまう人がいるという事。ただ、160・110のような治療の必要なレベルではないので、これも様子を見ることに。そして片頭痛に関してはロキソプロフェンを処方してもらった。
入浴はあと1週間はNG。
でも、血圧や調子を見て少しずつ運動するのはOK。
プールは次回の1か月後の検診までNG。
次回の検診時に染色体検査の結果も出るので、それまでにこれから次の妊娠に向けてどのように進むのかを話し合っておいてくださいということだった。
次の妊娠に向けて…というのは、今回の妊娠も私たちはMレディースクリニックでタイミング指導とAIHを受けていたので、またMレディースクリニックに戻るのか?それともこのK病院でそれを受けるのか?また別の方法を考えるのか…?
まだ私の中でも答えは出ていないのだけど、ゆっくり考えていきたいと思っている。
そしてこの日、改めて入院中にあった色々な病院の不手際に関して、N先生と看護師長さんからの謝罪があった。
院長にも報告をして、病院全体で改善に努めるということ、
その一環としてマニュアルを作成中で、今度の1か月後の受診の際にはそれを具体的な形で報告します…と説明があった。
私達もこの日、自分たちが感じたことを「意見書」としてK病院へ提出をした。
帰宅してから、何だか不思議と体が楽になった気がした。片頭痛も消えてくれた。
(せっかくロキソプロフェンもらったのに…)
運動もOK(運動したほうが子宮の中のものもしっかり出てくれるし、何よりもストレスを発散してくださいということだった)という言葉で少し元気になったのかも?
あとは、首の後ろをホットパック(レンジでチンするとしばらくじわっと暖かくなるやつ)で温めると全身がぽかぽか温かいことを発見して(夫が『これ、あるじゃん!』って探して来てくれた!ナイス!)それも助けになったのかも。
まだまだ怠さや出血はあるし、いきなり終わりを告げた妊娠状態に身体の大パニック感は否めないんだけど…ゆっくり、しっかり、健康に!と思っています。
12月9日 火葬
火葬は皆さんがブログで書かれていたように、胎児の場合は朝一番に行われるとのこと。9時の予約だったので、私達は朝の8時半に火葬場へ到着した。
前日に御葬儀屋さんから「まだ小さいのでもしかするとお骨が残らないかもしれません。もしもご希望であれば10円玉を中に入れて、その残った10円玉を遺骨代わりにする方もいらっしゃいます。」という話があった。でも…10円は10円なので…私たちは少しでもお骨が残ることを期待して、金属を入れることはしなかった。
(それから、病院で「へそのを」をしっかり残して桐の箱に入れて渡してくれていたので、形見が何も残らないわけではなかったから…ちなみにこの「へその緒」乾燥したら中の血管がしっかり見えてきて、FMCでの診断の通り悲しいかな3本あるはずが2本しか血管がありませんでした…)
9時に呼ばれ、火葬の場所へ…最期の対面の時間。
食べるのが大好きな私達の子供だから、少しだけでも…ということで卵ぼーろと私たちの朝ごはんだったおにぎりを小さく小さく握ったものを枕元に入れてあげた。
それから、短いお手紙も入れた。そこには「ありがとう」の言葉をたくさん書いた。
私達はお別れと涙の時間を過ごして、そして私は静かに神様に祈りながら、小さい我が子の身体とさよならをした。
まだ産まれてきていない赤ちゃんに魂はあるのか?
どこまで意識があるのか?とても難しい問題だし、今、こうやって生きている私達には完全には分からないことなのかもしれない。
でも私自身はクリスチャンとして、聖書を通して神様は胎児のころから私達1人1人をしっかり造られていると思っている。
「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物のすべてが書き記されました。
私のために作られた日々が、しかも、その1日もないうちに。」
今頃、希ちゃんは天国の神様の所で楽しく笑いながら過ごしているんだろうな…
30分くらいたってから、私達は収骨所へ呼ばれた。
白い小さい骨が少しだけ残っていた。
私達は自分たちで持ってきた陶器のポタリーケースにそれを収めてもらった。
白い2羽のハトが付いていて、白いハトは聖霊や希望を表すものなので、
(実は前に母親が「可愛いから」とプレゼントしてくれていたもの…)大きさもちょうどよかった。
私達は納骨はせずに、自分たちが死ぬまではお家で保管することにしていたので、
この容器と一緒に帰宅して、母親が送ってくれたお花と一緒にリビングに置いた。
「お帰り。ここが我が家だよ~」
この日はとっても天気が良くて、雲1つない青い空だった。
12月8日 静かな面会の時間
私達はあらかじめ調べていた「希望」の花言葉の花を駅の花屋さんで購入した。
女の子らしい可愛い色にしたかったので、薄いピンクやちょっと元気なピンクのガーベラとトルコキキョウを用意した。いずれも花言葉は希の名前の由来である「希望」が花言葉。
他にもお家にあった青いフェルトでできた熊のぬいぐるみと白い毛糸で編んだベビーシューズを持ってきた。
セレモニーサービスの場所は気が付かなかったけど、K病院の目と鼻の先にあった。
中に入るとすぐに通されて、静かな面会室に小さい棺が運ばれてきた。
夫も私も涙を流しながら、棺の中にお花を飾っていった。
女の子らしい可愛い棺になった。
そして枕元には私と夫と愛犬の3人の写真を置いた。
「天国で私たちが希ちゃんに気が付かなくても、すぐに探してほしいから写真を入れておくね」
6階にあったそのお部屋からは遠い丹沢の山が見えて、そこには真っ赤な夕日が沈むところだった。
夫と私と希ちゃんの3人で静かな時間をしばらく過ごした。
なんだか悲しいけれど、自分たちはちょっとだけ母親と父親になれたような、そんな少しだけの幸福感も感じるような時間でもあった。小さい命が与えてくれたプレゼントなのかもしれない。
*ちなみに、今回この御葬儀屋さんに支払った額は52920円でした。
棺の料金、保管料、そして諸経費ということで、病院に来てもらってすぐに私たちがサインをした火葬届を葬儀屋さんが市役所に提出、火葬許可書を貰ってきてくれるなどのサービス料がそこに含まれていました。ちなみに私たちは市営の火葬場を使ったので火葬料はゼロ円でした。
高いのか安いのかは分かりませんが…出産後のボロボロの身体で(夫もずっと付きっきりであまり寝ていなかったし)色々なことを動いてくれるのは助かったので、まぁ良かったのかな…と思っています。
12月8日 退院翌朝
この日は木曜日だったので、市の火葬場はお休みだった。
でも、退院して1日の準備の日があって、良かったと思う。
朝は本当に久しぶりにゆっくり目覚めて、ゆっくり朝食を食べた。
そしてゆっくり犬の散歩に出かけた。
まだ子宮に痛みがあるし、なんだか踏ん張れないのでゆっくりゆっくり歩きながら、近所の郵便局で用事を済ませ、パン屋さんでパンを買うというコース。
途中、通った公園にはたくさんの保育園の子どもたちがいた。
見ていてつらいか?と言ったら、さほど辛くはなかったけれど、
「この子たちみんな1人1人、奇跡だわ…」という思いだった。
でも、一瞬、枯葉で遊んでいた小さい女の子とお母さんの姿を見たら、急に涙が噴き出た。
夢の中で何回か出てきた可愛い女の子、きっとそれって希ちゃんだったのかなぁと思うのだけど、ちょうどそんな感じの女の子だったから。
歩きながら夫とこんな話もした。
「色々な死産の人のブログを見ててね、みんな産まれてきた赤ちゃんが『夫に似てる』とか『私に似てる』とか書いているんだけど…9割がた『夫に似てる』って書いてる気がするんだよね。で、昨日あなたの寝顔を見ながら思ったんだけど、それって自分の顔よりも普段、夫の顔の方がよく見ているからなのかなぁって思ったり…希ちゃんはどっちに似てるって思った?」
そして実は2人とも同じようなことを思っていた。
ちょっと口角が上がっている感じは母親の私に、そして目や鼻の付き方は父親の夫に似ているって…
15週の小さい命にもすでにそんな私たちの面影があるんだね。命って本当にすごい。
帰宅してお昼を食べて、シャワーを浴びて、久しぶりにしっかりお化粧をして(きれいなお母さんでいてあげなくては!と思った…)私たちはセレモニーサービスに預かってもらっている我が子の面会に出かけた。
12月7日 退院(ちょっとした事件発生)
分娩の翌朝。
夜中のうちに、助産師さんが棺を冷たい場所に保管してくれていた。もう1回、朝に対面してから、御葬儀屋さんが預かっていった。
結局、翌日は火葬場がお休みなので、明後日の朝まで保管をお願いすることになった。一緒に帰宅してあげたい気持ちもあったけど、しっかり保管していただくことに安心感もあったので。
出血と子宮が小さくなろうとする痛みはあったけど、もう陣痛の痛みとは比べものにはならない。ただ、眠れていない(体は眠ろうとしても頭はずっと起きていた感じ)怠さがひどかった。夫も私も朝食をとって病室でゆっくりしていた。
「今日の午前中には退院できます。」
朝の検診に来た助産師さんからはお話しがあった。
なので、まず退院前の診断を受けるのを待っていた。
すると病室にN先生が直接入ってきた。
「実は、謝罪しなくてはいけないことがあります。」と…
今回、子宮内胎児死亡が宣告された時から、私達はK病院に「胎盤染色体検査」をお願いしていた。それはFMC東京クリニックで受けたカウンセリングを基に私たちが決断したことで、次の妊娠を考えた時に、それに進んでいくためには今回の赤ちゃんの死因をしっかり明確にしておくことが大切だと考えていたから。FMCではこの胎盤染色体検査を薦めてくれていたのだけど、K病院ではどうも経験がなかったらしい。でも、K病院も外部の検査会社に問い合わせたところOKだったので、そのための手続きも進めてもらっていた。そして入院時やその後何回も私たちは「胎盤検査大丈夫ですよね?」と確認していた。
それなのに…
当直の先生や検査室への伝達が上手くいっておらず、出てきた胎盤を通常の処理であるホルマリン処理を行ってしまい、検査が出来なくなってしまったと告げられたのだ。
胎盤は生理食塩水に付けてすぐに検査会社に送られなくてはいけなかったのに。
もう取り返しはつかない…これで、のぞみちゃんに何が起きていたのかは永遠にわからないことになってしまった。
N先生はとにかく謝罪を続け、私達はこれからの妊娠に向けての不安を話した。
N先生は今後私が責任を持って診させてもらうので…と言っていた。
怒りもあったけど…もう仕方がない…話し合いを終えて、私は最後の内診を受けるために処置室へ。
するとN先生がすぐに助手に「すぐに生理食塩水持って来て!」私に「胎盤が残っていました!」と伝えた。
正直、昨晩の処置も大丈夫だったのか気になっていたの、子宮の状態をしっかり見てほしいと伝えていたのだけど、なんと、子宮口の近くにあった少し大きめの子宮筋腫の陰に胎盤の破片が残っていたのだ。
「これでしっかり検査にも出せます。子宮もとても綺麗です。卵巣にも傷はついていないし。大丈夫。」という診断だった。
とにかく、今回は綺麗な分娩で特に処置の必要がなかったという事、また血圧も高めなので余計なお薬も出しません。抗生物質だけ飲んでくださいということで、色々な事務処理を終えて、(出産一時金の直接支払制度のおかげで支払いもまったく無しで)退院した。
家に帰ると、一晩不安な気持ちで1人で過ごした愛犬が大喜びで寄ってきてくれた。
疲れ果てた2人は久々に家でしっかり休むことができた。
12月6日 入院2日目(かわいい赤ちゃん)
出産後、まずやらなくてはいけなかったのは御葬儀屋さんとのお話しだった。
ブログで色々調べてはいたけれど、どの病院でも対応が違ってよく分からなかった。
私達は自分たちで火葬場へ連れて行こうかと思っていたのだけど、結局病院には産まれてきた赤ちゃんを入れてあげる箱もなく、私達も持ってきている訳もなく、なんだかそういう諸々を考えるともう葬儀屋さんにきてもらうしか方法はないと思って、すぐに来てもらった。小さい小さい棺を持って来てもらった。
そして、その棺が来てようやく…私たちは自分たちの赤ちゃんに対面することが出来た。
連れてこられた時に私はベッドの上にいて、夫が出入り口付近にいた。
なので、まず夫が対面をすることになったわけで。
私は対面したときの夫の表情を一生忘れないと思う。
それは生きていても、命がなくてもとっても可愛い赤ちゃんに対面した父親の顔だった。「かわいい」夫が声を上げた。
そして私も対面した。
それは、本当に手のひらにのる大きさの、でも小さいけれど指には1つ1つ小さい爪もあって、かわいい可愛い女の子だった。
口元は少し笑っているようにも見えた。
手を組んで横を向いて寝かせられたたった30gの小さい我が子。
苦しかったのかな…首の後ろには浮腫の後、心臓も大きくまだ透明な皮膚の下に見えていた。でも、ここまで大きくなって…ありがとう。ありがとう。
病室でしばらく親子水入らずの時間を過ごした。
静かに涙を流しながら、でも時々「この太くて力強い足は2人に似ているよね。2人とも筋肉質だから。」とか「ぷっくらしたお腹がかわいらしい。」とか微笑みながら。
今夜はしばらく部屋に置いてもらって、3人で眠ることにした。
名前は希望の希と書いてのぞみちゃん。
私も夫も希望を持って歩んで行けるように、天国で見守っていてほしい。
そして私の頭の中に聖書のこの言葉が頭から離れなかったから
「この希望は失望に終わることがありません。」(新約聖書・ローマ人への手紙5章5節)
のぞみちゃん。産まれてきてくれて。
私達のところに来てくれて、本当にありがとう。
12月6日 入院2日目(午後。出産へ)
バルーンを挿入されて、すごく変な感じだった。
痛みはラミナリアとさほど変わらなかったけれど、とにかく長い管がずっとぶら下がっているので、歩きにくいやらトイレに行っても邪魔という…
それ以外はとても静かで病室の中で夫と色々な話をしながら過ごしていた。
今までのこと…
これからのこと…
実は今回、私の父に小さい胃がんが見つかり、また母も弟も流行性の胃腸炎になったりと実家もかなりバタバタしていて、お見舞いには夫以外誰も来なかった。
でも2人で病室で過ごした時間は、色々なことを思い出したり、これからのことを考えたり、思っていることを話し合ったり…2人で過ごせて、乗り越えられて本当に良かったと思っている。
午後になって少し痛みが強くなってきた。
夕食前にその痛みは継続するようになってきて、もしかして陣痛が始まったかもしれないと感じていた。でも助産師さんがチェックしてもバルーンはまだ外れそうもない。
6時ごろにはその波が収まったので、まずは夫に帰宅してもらう。
助産師さんのアドバイスで今夜は部屋に泊まった方が良いとのことだった。
なので一旦帰宅して犬のお世話をしてきてもらう必要があった。
そして夫がいなくなってから、痛みの合間をぬって夕食を食べた。ご飯は半分残したけれど、なんとか食べた。
食後にまた痛みが波のようにやってきた。
2分くらい痛みがぐ~っとやってきて、数分の休み。
その数分の休みの間に友人からのメールを読んだりしていた。
実はそこには2人の友人からの返信があった。
アメリカに住んでいる2人の友人に私の今回の状況を伝えたら、
「実は私も流産したんだよ。」と告白された。
やっぱり、みんな言わないだけでこういう場面を通されていたんだ…
夫に痛みのことを伝えると「すぐに行く」と連絡があった。
本格的な痛みのスタートは8:22。
9時過ぎにはあまりに痛いのでナースコール。
バルーンはまだ落ちてきていないって。
眼を閉じて息むと痛みが強くなるから、目を開けていてくださいと言われて、
必死に目を開けてこらえていた。
10時ごろに夫が到着。痛い。気が遠くなりそうだから、声を上げるしかない。
夫はとにかくベッドの横で私をさすったり手を握り締めたりしていた。
10:30過ぎごろに助産師さんが私の大声に心配をして病室に入ってきた。
「分娩室に移りましょう。立てますか?」
「…む、無理です。痛い。痛い。」
そんなことを繰り返していた。
一瞬の痛みの隙間で、立ち上がろうとした。
「あ。でも無理。立てない。」
夫にしがみついて立とうとしたその時、何かが出てきた感触が。
「あ…出ました。」
そしてそのまま何か温かくて大きいものがどんどん出てくる感覚があった。
そのあとはとにかく私はベッドの上で呆然としていた。
慌ただしく当直の先生や助産師さんが動いている。
隣で夫は「向こうにいてください。あ。でも時間。時間を教えてください。」言われていた。
10:41 病室で出産
必死の私は隣にいた先生(このあとすぐに一番初めに診てもらっていたO先生だったと気が付いたんだけど)の腕を握って、声にならない声で何かを言った。
あっという間に色々なものが片づけられ、赤ちゃんも連れて行かれた。
私も少し意識が定まってくると2人の助産師さんと研修医っぽい男性に抱きかかえられて処置室へ移動した。
内診台に乗ると、とにかく涙が溢れてきた。
今までこらえていたものがとにかくバーッと出てきた。
隣で夫が「ありがとう」「よくがんばったね」を繰り返して言いながら私の手を握っていた。痛みはもうほとんどなかったけど、とにかく力が出ない。泣くことしかできない。
O先生が内診を終えた。
私は掻把の覚悟もしていたんだけど、全てがきれいに出ています。処置は必要ありません。とのことだった。
「あの…赤ちゃんは?」
もちろん、泣くことも動くこともないけれど、間違いなく私たちの子ども。
早く会いたかった。
「あとでお部屋にお連れします。今は綺麗にしてあげていますから。」
私達は病室へ戻った。
12月6日 入院2日目(午前)
外が明るくなるころには自分で血圧を測定したり、テレビでニュースを見たりして過ごしていた。痛みはちょっと鈍くあるくらいでほとんどない。
夫が朝8時前には病室に来てくれた。夫もあまり眠れなかったみたい。
朝ごはんを食べて、次の処置を待つ。
朝ごはんは干物やのりが付いていて、最近ずっと減塩生活だったから
「こんなの食べていいの?!」なんて言いながらも、体力をつけないと陣痛に耐えられないと思って完食。
昨日の説明では午前中の処置は…
子宮口が十分に開いていれば陣痛促進剤を入れる。
十分でなければラミナリアを増やすと聞いている。
(昨日のN先生は増やすときにはもうあまり痛くならないと言ってくれていたの少し安心していた…)
呼ばれて処置室へ。
今日の助産師さんは夫の同室を認めてくれたので、カーテンのこちら側で夫がずっと手を握っていてくれた。
担当の先生は今まで見たこともないおじいさん先生だった。
向こうの医局の声が聞こえる「ん?だれ?は?○○さん(私の苗字)ね。はいはい。」
なんだかすごく嫌な予感がした。
何のあいさつも説明もなく先生は処置を始めた。
いきなりラミナリアを抜き始めた。
あれ?昨日は足りなければ足すって言ってたのに…
向こう側で助産師さんと研修医みたいな人が話しているんだけどこの老人医師とずっと会話がかみ合っていないのが聞こえる…こ、怖い。
「痛い!」
というと「は?痛くないだろ?大丈夫だろ?」みたいな言われ方もした。
最悪な医者に当たってしまった…
なんでこんな時に…
「だめだよ。こんなんじゃ入らない。◎◎◎はどこ?◎◎は?」みたいな会話を私の不安をよそに繰り返している。
もう勘弁してほしい。
「あの・・・どうなっているんですか?何をしているんですか?」
声を振り絞っても、老人医師の答えなし…
痛みよりもだんだん不安と怒りがこみ上げてきた。
あと少しで暴言吐くところでした…
隣の夫もかなりイライラしていた。この対応、ひどすぎる。
結局、赤ちゃんの頭よりもまだ少し小さい2cmの子宮口。そして柔らかさも足りない(この後、助産師さんが説明してくれたのは、普段は鼻の孔くらいの固さの子宮口は、出産できるような状態では耳たぶや唇くらいに柔らかくなるらしい。分かりやすい。)ということで、陣痛促進剤はまだ入れずに、バルーンを挿入されていた。
処置が終わるころに、私達の叫び声も聞こえたのか、科長のM先生が処置室に入ってきて、最後にチェックと説明をしてくれた…正直、ようやく安心した。
あとはこのバルーンが落ちてきたところがサインということで、とにかくバルーンが出てきたらすぐにナースコールをするように言われた。
また、M先生は「もしかすると自然に陣痛が来るかもしれない」と説明してくれた。
病室に戻り、助産師さんが様子を見に来たとき、
私達夫婦は、この老人医師に対する不満と不安を伝え、
もう2度とこの人に処置をしてほしくないと伝えた。
医師にとっては私たちはたくさんいる患者の1人かもしれない。
でも、私達にとっては人生の本当に大きな大きな局面なのだ。
それが心からの訴えだった。
12月5日 入院の日
12月5日。13時までに入院窓口へ行くことになっていた。
午前中にゆっくり夫と犬の散歩に出て、橋本駅でランチを食べて、K病院へ向かった。
案内をされて病棟へ行くと、用意されていた部屋は個室だった。
一通りの説明を受けて、すぐに処置をすると思っていたが、先生がオペに入ったという事で、それ以外のことを済ませることに。
まずは、感染症について調べるための採血と予定されていた点滴の準備で(結局点滴は受けなかったんだけど…)留置針を入れる処置。
それから、おっぱいの活動を抑えるための投薬をするために(これも結局しなかったんだけど…)心臓のエコー検査に。
あとは病室で夫と色々な話をしながら過ごしていた。
ただ、緊張のせいで血圧も高いし、頭も痛い…ベッドの上でゴロゴロしていた。
そしてついに処置に呼ばれた。
「痛いですか…?」「う~ん。痛いみたいです。」「大丈夫かな…」
覚悟していてもいざ内診台に乗ると…
「ちょっと待ってください…叫んでもいいですか?!」みたいな会話をしていた。
助産師さんが横にいてずっと「安心してください」と励ましてくれた。
N先生はまずエコーで赤ちゃんの様子を見せてくれた。
「ここが頭で、ここが…」
でも、もう心臓は動いていない。もう明日には対面できるんだ…そんな思いで見ていた。
そして流れるように、でも丁寧に説明をしながら「少し痛いですよ」なんて声をかけながら先生は1本1本「ラミナリア」を入れて行った。
確かに子宮口を鉗子でつまむときはかなり痛かった。そしてグイッとラミナリアを入れるとき痛い…
私は痛いと笑う傾向があるので、「痛い!」と叫びながら笑っていた…
途中痛みの中でも冷静で、横にかかっているカレンダーが11月のままなのに気が付いて「11月のままです…うぅぅぅ…」みたいなことを言っていた。
でも先生の手際が良かったのか、処置はあっという間に終了。
終わった後は生理痛のような痛みはあっても、普通に過ごせるレベルだった。
先生に「他の人はもっと痛がりますよ。全然大丈夫でした。」とお褒めの言葉もいただいて処置は終了。病室の夫の元へと戻った。
「大丈夫」そんなことを言いながらも、やはり頭痛の方が辛かったのでロキソプロフェンを1錠出してもらった。
今夜はこのラミナリアが水分を吸って少しずつ太くなって子宮口が広がるのを待つということ。
夕食をしっかり食べて、9時には夫は犬の待つ自宅へ帰って行った。
予定では明日の朝から次の処置が始まるから、それに合わせて夫は来てくれる。
8時には来るということなので、今日は早く帰って休んでもらうことに。
私も9時の消灯に合わせて電気を消した。
全然眠れなかったけど…
いよいよ、明日には静かに出産の時を迎えるのかな…
色々なことが頭の中をぐるぐる回り続けていた。