12月8日 退院翌朝
この日は木曜日だったので、市の火葬場はお休みだった。
でも、退院して1日の準備の日があって、良かったと思う。
朝は本当に久しぶりにゆっくり目覚めて、ゆっくり朝食を食べた。
そしてゆっくり犬の散歩に出かけた。
まだ子宮に痛みがあるし、なんだか踏ん張れないのでゆっくりゆっくり歩きながら、近所の郵便局で用事を済ませ、パン屋さんでパンを買うというコース。
途中、通った公園にはたくさんの保育園の子どもたちがいた。
見ていてつらいか?と言ったら、さほど辛くはなかったけれど、
「この子たちみんな1人1人、奇跡だわ…」という思いだった。
でも、一瞬、枯葉で遊んでいた小さい女の子とお母さんの姿を見たら、急に涙が噴き出た。
夢の中で何回か出てきた可愛い女の子、きっとそれって希ちゃんだったのかなぁと思うのだけど、ちょうどそんな感じの女の子だったから。
歩きながら夫とこんな話もした。
「色々な死産の人のブログを見ててね、みんな産まれてきた赤ちゃんが『夫に似てる』とか『私に似てる』とか書いているんだけど…9割がた『夫に似てる』って書いてる気がするんだよね。で、昨日あなたの寝顔を見ながら思ったんだけど、それって自分の顔よりも普段、夫の顔の方がよく見ているからなのかなぁって思ったり…希ちゃんはどっちに似てるって思った?」
そして実は2人とも同じようなことを思っていた。
ちょっと口角が上がっている感じは母親の私に、そして目や鼻の付き方は父親の夫に似ているって…
15週の小さい命にもすでにそんな私たちの面影があるんだね。命って本当にすごい。
帰宅してお昼を食べて、シャワーを浴びて、久しぶりにしっかりお化粧をして(きれいなお母さんでいてあげなくては!と思った…)私たちはセレモニーサービスに預かってもらっている我が子の面会に出かけた。
12月7日 退院(ちょっとした事件発生)
分娩の翌朝。
夜中のうちに、助産師さんが棺を冷たい場所に保管してくれていた。もう1回、朝に対面してから、御葬儀屋さんが預かっていった。
結局、翌日は火葬場がお休みなので、明後日の朝まで保管をお願いすることになった。一緒に帰宅してあげたい気持ちもあったけど、しっかり保管していただくことに安心感もあったので。
出血と子宮が小さくなろうとする痛みはあったけど、もう陣痛の痛みとは比べものにはならない。ただ、眠れていない(体は眠ろうとしても頭はずっと起きていた感じ)怠さがひどかった。夫も私も朝食をとって病室でゆっくりしていた。
「今日の午前中には退院できます。」
朝の検診に来た助産師さんからはお話しがあった。
なので、まず退院前の診断を受けるのを待っていた。
すると病室にN先生が直接入ってきた。
「実は、謝罪しなくてはいけないことがあります。」と…
今回、子宮内胎児死亡が宣告された時から、私達はK病院に「胎盤染色体検査」をお願いしていた。それはFMC東京クリニックで受けたカウンセリングを基に私たちが決断したことで、次の妊娠を考えた時に、それに進んでいくためには今回の赤ちゃんの死因をしっかり明確にしておくことが大切だと考えていたから。FMCではこの胎盤染色体検査を薦めてくれていたのだけど、K病院ではどうも経験がなかったらしい。でも、K病院も外部の検査会社に問い合わせたところOKだったので、そのための手続きも進めてもらっていた。そして入院時やその後何回も私たちは「胎盤検査大丈夫ですよね?」と確認していた。
それなのに…
当直の先生や検査室への伝達が上手くいっておらず、出てきた胎盤を通常の処理であるホルマリン処理を行ってしまい、検査が出来なくなってしまったと告げられたのだ。
胎盤は生理食塩水に付けてすぐに検査会社に送られなくてはいけなかったのに。
もう取り返しはつかない…これで、のぞみちゃんに何が起きていたのかは永遠にわからないことになってしまった。
N先生はとにかく謝罪を続け、私達はこれからの妊娠に向けての不安を話した。
N先生は今後私が責任を持って診させてもらうので…と言っていた。
怒りもあったけど…もう仕方がない…話し合いを終えて、私は最後の内診を受けるために処置室へ。
するとN先生がすぐに助手に「すぐに生理食塩水持って来て!」私に「胎盤が残っていました!」と伝えた。
正直、昨晩の処置も大丈夫だったのか気になっていたの、子宮の状態をしっかり見てほしいと伝えていたのだけど、なんと、子宮口の近くにあった少し大きめの子宮筋腫の陰に胎盤の破片が残っていたのだ。
「これでしっかり検査にも出せます。子宮もとても綺麗です。卵巣にも傷はついていないし。大丈夫。」という診断だった。
とにかく、今回は綺麗な分娩で特に処置の必要がなかったという事、また血圧も高めなので余計なお薬も出しません。抗生物質だけ飲んでくださいということで、色々な事務処理を終えて、(出産一時金の直接支払制度のおかげで支払いもまったく無しで)退院した。
家に帰ると、一晩不安な気持ちで1人で過ごした愛犬が大喜びで寄ってきてくれた。
疲れ果てた2人は久々に家でしっかり休むことができた。
12月6日 入院2日目(かわいい赤ちゃん)
出産後、まずやらなくてはいけなかったのは御葬儀屋さんとのお話しだった。
ブログで色々調べてはいたけれど、どの病院でも対応が違ってよく分からなかった。
私達は自分たちで火葬場へ連れて行こうかと思っていたのだけど、結局病院には産まれてきた赤ちゃんを入れてあげる箱もなく、私達も持ってきている訳もなく、なんだかそういう諸々を考えるともう葬儀屋さんにきてもらうしか方法はないと思って、すぐに来てもらった。小さい小さい棺を持って来てもらった。
そして、その棺が来てようやく…私たちは自分たちの赤ちゃんに対面することが出来た。
連れてこられた時に私はベッドの上にいて、夫が出入り口付近にいた。
なので、まず夫が対面をすることになったわけで。
私は対面したときの夫の表情を一生忘れないと思う。
それは生きていても、命がなくてもとっても可愛い赤ちゃんに対面した父親の顔だった。「かわいい」夫が声を上げた。
そして私も対面した。
それは、本当に手のひらにのる大きさの、でも小さいけれど指には1つ1つ小さい爪もあって、かわいい可愛い女の子だった。
口元は少し笑っているようにも見えた。
手を組んで横を向いて寝かせられたたった30gの小さい我が子。
苦しかったのかな…首の後ろには浮腫の後、心臓も大きくまだ透明な皮膚の下に見えていた。でも、ここまで大きくなって…ありがとう。ありがとう。
病室でしばらく親子水入らずの時間を過ごした。
静かに涙を流しながら、でも時々「この太くて力強い足は2人に似ているよね。2人とも筋肉質だから。」とか「ぷっくらしたお腹がかわいらしい。」とか微笑みながら。
今夜はしばらく部屋に置いてもらって、3人で眠ることにした。
名前は希望の希と書いてのぞみちゃん。
私も夫も希望を持って歩んで行けるように、天国で見守っていてほしい。
そして私の頭の中に聖書のこの言葉が頭から離れなかったから
「この希望は失望に終わることがありません。」(新約聖書・ローマ人への手紙5章5節)
のぞみちゃん。産まれてきてくれて。
私達のところに来てくれて、本当にありがとう。
12月6日 入院2日目(午後。出産へ)
バルーンを挿入されて、すごく変な感じだった。
痛みはラミナリアとさほど変わらなかったけれど、とにかく長い管がずっとぶら下がっているので、歩きにくいやらトイレに行っても邪魔という…
それ以外はとても静かで病室の中で夫と色々な話をしながら過ごしていた。
今までのこと…
これからのこと…
実は今回、私の父に小さい胃がんが見つかり、また母も弟も流行性の胃腸炎になったりと実家もかなりバタバタしていて、お見舞いには夫以外誰も来なかった。
でも2人で病室で過ごした時間は、色々なことを思い出したり、これからのことを考えたり、思っていることを話し合ったり…2人で過ごせて、乗り越えられて本当に良かったと思っている。
午後になって少し痛みが強くなってきた。
夕食前にその痛みは継続するようになってきて、もしかして陣痛が始まったかもしれないと感じていた。でも助産師さんがチェックしてもバルーンはまだ外れそうもない。
6時ごろにはその波が収まったので、まずは夫に帰宅してもらう。
助産師さんのアドバイスで今夜は部屋に泊まった方が良いとのことだった。
なので一旦帰宅して犬のお世話をしてきてもらう必要があった。
そして夫がいなくなってから、痛みの合間をぬって夕食を食べた。ご飯は半分残したけれど、なんとか食べた。
食後にまた痛みが波のようにやってきた。
2分くらい痛みがぐ~っとやってきて、数分の休み。
その数分の休みの間に友人からのメールを読んだりしていた。
実はそこには2人の友人からの返信があった。
アメリカに住んでいる2人の友人に私の今回の状況を伝えたら、
「実は私も流産したんだよ。」と告白された。
やっぱり、みんな言わないだけでこういう場面を通されていたんだ…
夫に痛みのことを伝えると「すぐに行く」と連絡があった。
本格的な痛みのスタートは8:22。
9時過ぎにはあまりに痛いのでナースコール。
バルーンはまだ落ちてきていないって。
眼を閉じて息むと痛みが強くなるから、目を開けていてくださいと言われて、
必死に目を開けてこらえていた。
10時ごろに夫が到着。痛い。気が遠くなりそうだから、声を上げるしかない。
夫はとにかくベッドの横で私をさすったり手を握り締めたりしていた。
10:30過ぎごろに助産師さんが私の大声に心配をして病室に入ってきた。
「分娩室に移りましょう。立てますか?」
「…む、無理です。痛い。痛い。」
そんなことを繰り返していた。
一瞬の痛みの隙間で、立ち上がろうとした。
「あ。でも無理。立てない。」
夫にしがみついて立とうとしたその時、何かが出てきた感触が。
「あ…出ました。」
そしてそのまま何か温かくて大きいものがどんどん出てくる感覚があった。
そのあとはとにかく私はベッドの上で呆然としていた。
慌ただしく当直の先生や助産師さんが動いている。
隣で夫は「向こうにいてください。あ。でも時間。時間を教えてください。」言われていた。
10:41 病室で出産
必死の私は隣にいた先生(このあとすぐに一番初めに診てもらっていたO先生だったと気が付いたんだけど)の腕を握って、声にならない声で何かを言った。
あっという間に色々なものが片づけられ、赤ちゃんも連れて行かれた。
私も少し意識が定まってくると2人の助産師さんと研修医っぽい男性に抱きかかえられて処置室へ移動した。
内診台に乗ると、とにかく涙が溢れてきた。
今までこらえていたものがとにかくバーッと出てきた。
隣で夫が「ありがとう」「よくがんばったね」を繰り返して言いながら私の手を握っていた。痛みはもうほとんどなかったけど、とにかく力が出ない。泣くことしかできない。
O先生が内診を終えた。
私は掻把の覚悟もしていたんだけど、全てがきれいに出ています。処置は必要ありません。とのことだった。
「あの…赤ちゃんは?」
もちろん、泣くことも動くこともないけれど、間違いなく私たちの子ども。
早く会いたかった。
「あとでお部屋にお連れします。今は綺麗にしてあげていますから。」
私達は病室へ戻った。
12月6日 入院2日目(午前)
外が明るくなるころには自分で血圧を測定したり、テレビでニュースを見たりして過ごしていた。痛みはちょっと鈍くあるくらいでほとんどない。
夫が朝8時前には病室に来てくれた。夫もあまり眠れなかったみたい。
朝ごはんを食べて、次の処置を待つ。
朝ごはんは干物やのりが付いていて、最近ずっと減塩生活だったから
「こんなの食べていいの?!」なんて言いながらも、体力をつけないと陣痛に耐えられないと思って完食。
昨日の説明では午前中の処置は…
子宮口が十分に開いていれば陣痛促進剤を入れる。
十分でなければラミナリアを増やすと聞いている。
(昨日のN先生は増やすときにはもうあまり痛くならないと言ってくれていたの少し安心していた…)
呼ばれて処置室へ。
今日の助産師さんは夫の同室を認めてくれたので、カーテンのこちら側で夫がずっと手を握っていてくれた。
担当の先生は今まで見たこともないおじいさん先生だった。
向こうの医局の声が聞こえる「ん?だれ?は?○○さん(私の苗字)ね。はいはい。」
なんだかすごく嫌な予感がした。
何のあいさつも説明もなく先生は処置を始めた。
いきなりラミナリアを抜き始めた。
あれ?昨日は足りなければ足すって言ってたのに…
向こう側で助産師さんと研修医みたいな人が話しているんだけどこの老人医師とずっと会話がかみ合っていないのが聞こえる…こ、怖い。
「痛い!」
というと「は?痛くないだろ?大丈夫だろ?」みたいな言われ方もした。
最悪な医者に当たってしまった…
なんでこんな時に…
「だめだよ。こんなんじゃ入らない。◎◎◎はどこ?◎◎は?」みたいな会話を私の不安をよそに繰り返している。
もう勘弁してほしい。
「あの・・・どうなっているんですか?何をしているんですか?」
声を振り絞っても、老人医師の答えなし…
痛みよりもだんだん不安と怒りがこみ上げてきた。
あと少しで暴言吐くところでした…
隣の夫もかなりイライラしていた。この対応、ひどすぎる。
結局、赤ちゃんの頭よりもまだ少し小さい2cmの子宮口。そして柔らかさも足りない(この後、助産師さんが説明してくれたのは、普段は鼻の孔くらいの固さの子宮口は、出産できるような状態では耳たぶや唇くらいに柔らかくなるらしい。分かりやすい。)ということで、陣痛促進剤はまだ入れずに、バルーンを挿入されていた。
処置が終わるころに、私達の叫び声も聞こえたのか、科長のM先生が処置室に入ってきて、最後にチェックと説明をしてくれた…正直、ようやく安心した。
あとはこのバルーンが落ちてきたところがサインということで、とにかくバルーンが出てきたらすぐにナースコールをするように言われた。
また、M先生は「もしかすると自然に陣痛が来るかもしれない」と説明してくれた。
病室に戻り、助産師さんが様子を見に来たとき、
私達夫婦は、この老人医師に対する不満と不安を伝え、
もう2度とこの人に処置をしてほしくないと伝えた。
医師にとっては私たちはたくさんいる患者の1人かもしれない。
でも、私達にとっては人生の本当に大きな大きな局面なのだ。
それが心からの訴えだった。
12月5日 入院の日
12月5日。13時までに入院窓口へ行くことになっていた。
午前中にゆっくり夫と犬の散歩に出て、橋本駅でランチを食べて、K病院へ向かった。
案内をされて病棟へ行くと、用意されていた部屋は個室だった。
一通りの説明を受けて、すぐに処置をすると思っていたが、先生がオペに入ったという事で、それ以外のことを済ませることに。
まずは、感染症について調べるための採血と予定されていた点滴の準備で(結局点滴は受けなかったんだけど…)留置針を入れる処置。
それから、おっぱいの活動を抑えるための投薬をするために(これも結局しなかったんだけど…)心臓のエコー検査に。
あとは病室で夫と色々な話をしながら過ごしていた。
ただ、緊張のせいで血圧も高いし、頭も痛い…ベッドの上でゴロゴロしていた。
そしてついに処置に呼ばれた。
「痛いですか…?」「う~ん。痛いみたいです。」「大丈夫かな…」
覚悟していてもいざ内診台に乗ると…
「ちょっと待ってください…叫んでもいいですか?!」みたいな会話をしていた。
助産師さんが横にいてずっと「安心してください」と励ましてくれた。
N先生はまずエコーで赤ちゃんの様子を見せてくれた。
「ここが頭で、ここが…」
でも、もう心臓は動いていない。もう明日には対面できるんだ…そんな思いで見ていた。
そして流れるように、でも丁寧に説明をしながら「少し痛いですよ」なんて声をかけながら先生は1本1本「ラミナリア」を入れて行った。
確かに子宮口を鉗子でつまむときはかなり痛かった。そしてグイッとラミナリアを入れるとき痛い…
私は痛いと笑う傾向があるので、「痛い!」と叫びながら笑っていた…
途中痛みの中でも冷静で、横にかかっているカレンダーが11月のままなのに気が付いて「11月のままです…うぅぅぅ…」みたいなことを言っていた。
でも先生の手際が良かったのか、処置はあっという間に終了。
終わった後は生理痛のような痛みはあっても、普通に過ごせるレベルだった。
先生に「他の人はもっと痛がりますよ。全然大丈夫でした。」とお褒めの言葉もいただいて処置は終了。病室の夫の元へと戻った。
「大丈夫」そんなことを言いながらも、やはり頭痛の方が辛かったのでロキソプロフェンを1錠出してもらった。
今夜はこのラミナリアが水分を吸って少しずつ太くなって子宮口が広がるのを待つということ。
夕食をしっかり食べて、9時には夫は犬の待つ自宅へ帰って行った。
予定では明日の朝から次の処置が始まるから、それに合わせて夫は来てくれる。
8時には来るということなので、今日は早く帰って休んでもらうことに。
私も9時の消灯に合わせて電気を消した。
全然眠れなかったけど…
いよいよ、明日には静かに出産の時を迎えるのかな…
色々なことが頭の中をぐるぐる回り続けていた。
入院までの数日間
12月5日の入院までの数日間。
不思議と今までよりも涙を流すことは少なかった気がする。
とにかく、母親としてしっかり出産しなくてはいけないという気持ち。
でも、身体はとても正直で「もう妊娠は終わったんだよ」と言わんばかりに流産の気配も感じていた。
妊娠中はいつも体が温かかったのに、寒気を感じたり、
少しだけ出血も始まっていた。
夫に誘われて一緒にゆっくり歩きながら犬の散歩に出たり、
近所に買い物に行ったり…
あとは家で静かに過ごしていた。
そしてまた同じように「子宮内胎児死亡」を経験された方々のブログを読んで、自分たちにこれから起きることを冷静に考えたり…
あとは入院の準備を少しずつ進めていた。
我が子のように過ごしている愛犬としばらく会えないのがとってもさみしい。
入院の前日、やっぱりこらえていたものが噴きだしてお風呂の中で涙がこぼれた。
よく夫と「お風呂も賑やかになるね」なんて話をしていた。
一緒にお風呂に入れて、お風呂の中でも子どもの成長を感じるんだろうな…と楽しみにしていたから。
でも、今はまだお腹のなかにピコちゃんはいて、夫と3人でお風呂に入っているのはとても大切な時間だった。
いよいよ明日は入院。
しっかり頑張らなくちゃ。
11月30日 入院受付やその他事務的なことについて
診断後、すぐに入退院窓口に行き、手続きを行い、説明を受けた。
そこで、費用の確認も行ったところ、12週以上の分娩なので「出産一時給付金」の対象になるということだった。また、その「直接支払制度」の対象となる病院のため、そのための書類にサインをした。つまり42万円の給付を超えた分は自費で支払う事となるが、42万円以下の場合は後で戻ってくることになる。
また、この窓口で部屋の希望も聞かれたが、やはり、今回は死産という事で心理的にとてもつらいものなので、それを配慮してくださいというリクエストをした。
職場には「次の診断(つまりこの30日)までは確実に休むけど、それ以降はその診断次第」と伝えていた。(なので、翌日からは私が戻ってくると子どもたちには伝わっていたみたい…翌日にお見舞いのポインセチアを職場の方が持ってきてくれたのだけど、そこに「おかえりなさい。6-1(私の担任のクラス)より」というカードが添えてあった。切なかった。)
帰宅後に電話で、まず今後のことを人事・総務の担当の方に電話で相談した。
というのも、医師は「退院後医療的には別にすぐに職場復帰しても構いません」と言っていたのだけど、色々な検索を見てみると「12週以降は出産扱いなので、労基上2か月の産休が必要」とも書いてあったので、果たして私がいつまで休むべきなのか?明らかにしたかったから。担当の方はすぐに社労士の方に連絡を取って調べてくださった。折り返しの電話で、やはり、私のような労働者は(恐らく自営業の方々はそんなこと言っていられないと思うからまた別の話になってしまうのだと思うが)法律上、8週間または医師の許可によっては6週間、労働が禁止されていると伝えられた。また、その間は産休扱いなのでお給料の3分の2が健保から支払われるとのこと。丁寧に説明をしてくださり、書類を送ってくださるとのこと。
つづけて、事情を上司である校長に電話で伝えた。
「かける言葉が見つからないけれど…体を大事にしてください。」と。
とにかく学校は「師走」という言葉があるように、本当に大変な時期。
申し訳ない気持ちと、でも、気持ちの問題としてすぐの復帰はあまりにもキツイとも考えていたから安どの気持ちもあった。
それから、私は女性のための医療保険EVERに加入していたので、アフラックにも電話して書類を取り寄せた。入院給付金と女性のための疾病特約給付金が受け取れるため。(医療保険上は、異常分娩というカテゴリーになるため)
こうやってバタバタと1つ1つのことをこなした。
そして夕方過ぎに、夫が
「あのさ、今日…病院で、診断受けて、先生のお話し聞いているとき…社会の窓が、全開だった。」と…衝撃の告白を受けた。
2人で大笑いした。泣くほど笑った。
こんな時も2人で笑えるって、本当に感謝だ。
「2人でがんばろう」これがいつの間にか合言葉みたいになっていた気がする。
11月30日 子宮内胎児死亡の診断
11月30日。相模原K病院。
何故か勘違いして予約時間より1時間早く受付を済ませてしまった。
でもなぜかすぐに呼ばれた。
診断の前にO先生には先週にFMCで受けた診断の内容を伝え、報告書を渡した。
すぐに経腹エコーをすることになった。
私は覚悟を決めて横になった。
そこには今までピコピコと動いていた心臓の動きはなく、
ピコちゃんは静かに羊水の中に浮かんでいるようだった。
私の目で見ても、もうそこに命がないことが分かった。
O先生はまたすぐに指導医的なN先生を呼んだ。
血液の流れを映すモードに変えてもエコーには何も映らなかった。
「恐らく、もう赤ちゃんの心臓は止まってしまっています」
頭の上で同じ画像を見つめていた夫が静かに私の手を握っていた。
「すぐに赤ちゃんを外に出す処置をしなくてはいけないので、今から入院の予定などを確認するので待合室でしばらくお待ちください。」
私達は2人で静かに診察室を後にした。
私の中では「あぁ…やっぱり。ピコちゃんはもう苦しんでなかった。天国に行っちゃってたんだ…」というなんだかポッカリと心に穴が開いたような放心状態だった。
でも、その私の分の涙を夫は隣で静かに流していた…
再び呼ばれて、診断書が渡された
「子宮内胎児死亡による人工流産」と書かれている。
入院日は翌週の月曜日12月5日に決まった。
まず、5日にラミナリアを挿入、子宮口を開く処置を行う。
翌日から陣痛を行うための薬を膣に入れ、分娩。
早ければ翌日には退院できるので、最短で2泊3日の入院という説明だった。
お腹の中で死んでしまった赤ちゃんは外に出るために自分の身体を少しずつ溶かしていくとも聞いていた。早く出してあげたいとも思った。
(でも裏腹に、ずっと一緒にいたいという気持ちもあったのだけど。)
とにかく、私の中でこの診断日から入院・出産までの間は
「私のできる、この子への最初で最後の仕事はこの出産だ。痛くても何でもしっかりやらなくては。」という不思議な緊張感でいっぱいだった。
胎児診断後~次の診断まで
女性の身体は本当に不思議だなって思う。
11月22日に絶望的な診断を受け、次のK病院での妊婦健診まで8日ほどあったのだけれど、その間に、私の身体はどんどん動かなくなっていった。
近くのスーパーに行くのもやっと。
帰り道に自分の身体のあまりの動かなさに不甲斐なくて涙が出るときもあった。
でも、この1つ1つの怠さや動かなさは1回目の流産の前兆にとても似ていた。
だから、この8日の間のどこかの時点で私は正直、もうピコちゃんの心臓は止まってしまっているだろうという感覚がどこかにあった。
ちなみに血圧はさすがにこの胎児診断直後はストレスから一時的に上昇。でもまたそのあとは安定していた。
そしてとにかくこの間に私は色々な感情を通った。
ぼーっとしていると色々考えてしまうので、それが嫌だから、今までほとんどやっていなかったZOO KEEPERというパズルゲームにハマってみたり、相変わらず同じような経験をした人はいないか…検索魔として過ごしていた。
(そして、相変わらず1日1回はメールで仕事もしていた)
通った感情は
①私は何か悪いことをしましたか?という怒り
流産(死産)はみんな語らないだけで、10回のうち1~2回の高確率で起きることらしい。でも私は2回もこの少数派に入ってしまった。何故?
もちろん年齢(39歳)の影響が大きいことも分かっている。でも、私はここまで真剣に生きてきただけで、いたずらに先延ばしにして妊娠が今になってしまったわけではないのに…神様なぜですか?!私はクリスチャンなので、生意気に、でも正直に神様に「なぜですか?なぜですか?」と問い続けた。(今も問い続けているのかもしれない。振り返って書いている冷静な自分は「罪人が何を傲慢な!」なんて恥ずかしく思ったりもするのだけど…)聖書の中には同じように苦しみを通るときに「主よ、何故ですか?」と叫び続けている人がいる。まさしく彼らとおなじように叫び続けていた。
(死=人の罪=神様の義から離れて勝手に生きることを選んだ人間に与えられた罰。神学的な答えはできるし。分かっている。それを真実だと思い、信仰は変わらずに持っているけれど…神様が私たちのことを愛しているのに、なぜこんなに悲しいことが起きるんだろう?!そしてテレビでは子供を手放したり、無計画に作って虐待なんていう報道が毎日されている…なのに。なぜ?こんなに待ち望んで楽しみにしていた私たちにこんなことが起きるの?という怒りも通った。。。)
②自分の弱さに対する失望感
ふと…こんな今の辛い状態が続くのであれば、早く流産してリセットされたほうが楽なんじゃないか?という思いが湧いた自分にびっくりして、そして最悪だ!と思って泣き崩れることもあった。
③夢が閉ざされた絶望感
妊娠が分かってからの数か月間、やっぱり産まれてくる赤ちゃんを思って、成長する赤ちゃんを思い描いて、3人と1匹でどんな生活が待っているんだろう?夫婦で楽しみにして過ごしていた…この1つ1つのシーンはえも言われない、とってもとっても幸福感のある時間だった。でも、もうその思いは現実にはならないんだ…という悲しみ・喪失感がなによりも大きいものだった。
寝る前、そして外が暗くなるといきなり泣き始める私のそばに夫はいつも寄り添ってくれた。動けない私とゆっくりゆっくり一緒に歩いてくれた夫。
それは本当に本当にありがたかった。
こうやって11月30日の予約検診の日がやってきた。
すでに夫にも「なんかね…もうダメな気がするんだ」と伝えていた私。
覚悟をしてその日を迎えた。