11月22日 胎児診断へ③
クリニックを出ると、久々の都心。
そこを私はポタポタと流れる涙と一緒に、夫に手を引かれて歩いていた。
でもお腹が空く…
駅前のロイヤルホストで、久々にあまり塩分を気にせずに食事をした。
(仕事を休み始めてから、とにかく1日6g!の減塩自炊を心がけていたから。ちなみに、ロイホは他のファミレスと違って、塩分量が少ない…さすが、ちゃんと調理しているファミレス。価格も高いけどね。)
バカみたいに大きいチョコレートサンデーも食べた。
住んでいたアメリカが懐かしいなんて言いながら…
食事中はなんだか夫といろいろ話しながら何だか少し笑ったりもした。
でも、トイレに1人で行って、少し大きくなったお腹を鏡で見たら、また何だか泣けてきて、声を上げて泣いてしまった。
そして、帰りはとっても混んでいた電車に揺られ(マタニティーマーク特権で、シルバーシートに座らせていただきながら。立っていることはとてもじゃないけどできなかった。)帰宅した。
そして、夫と2人で声を上げて泣いた。そして泣き疲れたように寝てしまった。
この後の数日間、私はなぜか夕方位になると毎日のように声を上げて泣いていた。
カウンセラーの方の言っていたように私の中には本当に色々な感情が代わる代わるやってきた。怒り、悲しみ、喪失感、、、本当に色々な思い。
でも1つ。夫と約束したことがあった。
それは「自分だけを責めないこと」
夫も私も、元々自分を責めて責めて落ち込んで取り留めもなく落ち込んでしまうことが今までにもあったのだけど、その結果何かいいことがあるかと言えば…ほとんどない訳で…
今回の赤ちゃんのことも、自分を責めても何も現状は変わらない。
今は2人で支え合って、前に進まなくてはいけないから、
「自分を責めない(なぜか、責めたらハーゲンダッツをおごるというユルイ決まり付き。)」という話をした。
そしてもう1つ、これは出産・火葬を終えて振り返っている今も言えることだけれど、今回のこの1つ1つの出来事を通して、私は本当に夫に心から感謝しているし、愛されていることを日々感じることができた。
11月22日。皮肉にも「いい夫婦の日」。
2人にとってはあり得ないほどの悲しみのどん底の日だったけれど、
今日の診断中もいつも私の手を取って支えて励ましてくれた、
また、先生にも私の体に危険がないか?私の命は大丈夫なのか?それをいつも聞いてくれた、
泣いて仕方のない私のことをしっかり見てくれた、そして一緒に泣いて気持ちを受け止めてくれた夫に心からありがとう、出会えて、この人と結婚して本当に良かったと思う「いい夫婦の日」だった。
11月22日 胎児診断へ②
エコーの画像が見られるように薄暗い、でも落ち着くような雰囲気に作られた診断室へ。そして先生はすぐにお腹にジェルを塗ってエコー診断を始めた。
まずは3つある私の子宮筋腫を測定していた。
その間にピコちゃんの姿が見えていた。
動いている。
心臓もまだピコピコ動いている。
良かった。まだ生きていてくれている。
今までの病院よりもさらにクリアな画像が目の前には映し出されていた。
でも…先生の顔は厳しかった。
そして、やっぱり…NTはしっかり存在していて、前回よりも肥大して8mm。
次に先生はエコーを拡大して色々な部分を測定していく。
例えば鼻骨。これは21トリソミーつまりダウン症候群の判断の材料になる。
鼻骨は「あり」
そして先生は色々な画面を使って、ピコちゃんの心臓や血液の流れを調べ始めた。
心拍数は正常範囲…でも
「かなり血液が逆流してしまっています…そして通常3本あるはずの臍帯血管も2本しかありません。心臓も拡大しているし…元気がないよね。」
私達はとにかく先生の言葉を受け止めるしかなかった。
最後に3Dで写真を撮ってくださった(これは本当に私たちの宝物になるのだけど)。
そして診察台を降りて、夫の横に座って先生の話をもう1度しっかり聞くことになった。
「残念だけれど、赤ちゃんはもうかなり弱っている。恐らく、このままお腹の中で死んでしまう可能性がかなり高いと思います。この後、絨毛検査もできるけれど、もしもお2人がこのまま中絶も考えていないのであれば、今は受けずに、15週になれば羊水検査を考えてもいいし、経過を見ていくしかないと思う。恐らくかなりの確率で染色体の異常が見られ、心臓が正常には動いていない。」
私達も様々な質問をした。
先生はその1つ1つに丁寧に答えてくれたけれど、
その答えの中に1つも望みを与えてくれるものはなかった。
それでも、ピコちゃんの心臓は今日はまだしっかり動いていた。
でも…覚悟をしなくてはいけない。
もしかしたら明日にでもこの心臓は止まってしまうのかもしれないと。
診察室を出ると、私たちは呆然と椅子に座った。
すると、先ほど説明をしてくれたカウンセラーがやってきて
「大丈夫でしたか?とてもつらいお話だったと思いますが…お話を聞きますよ。」
と、声をかけられた。
私達はその場で色々な質問を繰り返したけれど、その場には数名の夫婦もいたので奥のカウンセリングルームに移動した。
そこに座ったら…
今まで我慢していた何かがこみ上げてきて、涙があふれてきた。
カウンセラーさんは「いいんですよ。思いっきり泣いて。おそらくこれから色々な感情がこみ上げてきます。でも、それは何一つ間違っているものではないから、泣いて吐き出していいんですよ。」と言っていたような気がする。
私達はここでも本当に納得するまで色々な質問をして答えていただいた。
そこには、もしもこのピコちゃんが死んでしまったとして、つぎの妊娠をどうとらえるべきか?もしもこの原因が親である私たちにあるのであれば…そんな質問もあったように記憶している。
「恐らく、今回のことは私達にはまったくコントロールできない染色体異常が原因で、親の遺伝が原因であることはほぼないし、母親が何かしたからということもまずない。しかし、今回のエコーだけでは何が原因なのか確定診断は出来ない。でも羊水検査や絨毛検査は赤ちゃんの細胞から染色体を見るので、確定診断ができる。そしてもしも今回、死産となれば赤ちゃんと一緒に出てくる胎盤でも判断ができる。」
このような説明をうけた。
そして、私達は詳しく書かれたデータとエコー画像のUSBを受け取り、クリニックを後にした。
(ちなみに、今回のお支払いは56700円でした。
そして、今振り返ると、この診断を受けて本当に良かったと思っています。
まず、この時が動いている赤ちゃんに会える最期のチャンスだったから。それを鮮明な画像で見られたのは本当に良かった。そしてこの後の死亡の診断までに、しっかり心の準備が出来たから。良い決断だったと思っています。)
11月22日 胎児診断へ①
11月22日。
久しぶりの遠い外出。
先週から6日間ほど自宅安静ということで過ごしていたけれど、
なんだかずっと怠かった。
でも血圧は実は安定していて家で測定するとあまり高くはない。
つわりはもう終わった感じなんだけど、とにかくだるくて歩くのも辛い。
そんな感じだった。
幸いにもFMC東京クリニックのある九段下は我が家から電車で1本だった。
到着すると、まだ移転して新しいクリニックは白を基調としたとても綺麗で落ち着いた雰囲気、とても静かな場所だった。
程なくするとまず「カウンセラー」の女性からこれから受診する診断の説明やヒアリングがあった。1時間位、とてもじっくりと。
すでに私は検索魔だったから色々なことは頭に入っていたけれど、改めて非常に分かりやすく説明してもらい、資料も受け取った。
これから行う診断は経腹エコーだけれど、それを日本では数名しかいないNT診断の専門医が行うこと。そしてそのNTが何ミリだと、どれくらいの割合で染色体異常が見られるか…など。
また、その染色体異常には13・18・21トリソミーがあり、それがどれくらいの割合で起きるのか?またトリソミーはなぜ起きるのか?そしてその赤ちゃんはどうなるのか…など。
そして、今日受けるエコー検査の後、どんなオプション(絨毛検査・羊水検査)があるのか…
とにかくたくさんのインフォメーションを私たちが分かるまでしっかり説明をしてくれた。
そして、これは前にK病院でも聞かれたけれど「異常が見つかった場合にどうしますか?」ということに関しては非常に厳しい口調で、私達の決意を問われた。
私達は変わらず「命がある限りしっかり産んで育てたい」という覚悟を伝えた。
また、私達が教員であることを伝えていたので
「色々な子どもたちを見ておられるお2人でも、その決断は変わりませんか?」というような聞かれ方もした。
でもこれも色々な子供を見ているからこその私たちの決断であることを伝えた。
(でも、私も今回、これは色々な検索をして、頸部水腫やヒグローマがひどい赤ちゃんを泣くなく「もうこれ以上苦しい思いをさせたくない」と中絶するお母さん、そして産まれてからのことを悲観して、また家族の説得で中絶を選択するご夫婦もたくさんいると知った。そして…私はクリスチャンだから、今までもこれからもこの神様が与えてくださった命を自分の選択で断つということは絶対にないと思うが、でも悩んで、泣いて、中絶を決意されるご夫婦の気持ちも痛いほど良く分かったし、絶対に責めることはできないと心から思った。)
一通りの説明を受け、同意書に署名をしたのち、
いよいよ院長の診断を受ける時が来た…
検索しまくる。
NT、赤ちゃんの様子があまり良くないかもしれないと告知され、
仕事も休むことになってから、
時間もあるので、色々な検索をしまくった…
NT
ヒグローマ
胎児診断
…
希望が持てるサイトもあれば、
覚悟をしなくてはいけないと思わせるものもある。
でも、とにかく今私たちにできることは何だろう?
そう考えると、やはりもっと専門的なお医者さんに診てもらうべきではないか?
という結論に至った。
もしも羊水検査を行う事となっても、流産の確率がない訳ではない。
だから、出来るだけ信頼できる所で受けたいし、
障害を持った状態で産まれてくると分かれば、
やはり最大限の準備が整った病院で出産したい。
そして。。。
やっぱり専門の先生に…少しでも望みのある言葉をかけてほしいという気持ちもあった。
そこでまた胎児診断の病院や体験談を検索し…
どうも一番有名な先生は大阪にいることが分かった。
東京からわざわざ新幹線で泊まりがけで行く人もいるらしい。
でも、最近の情報を検索するとどうも東京にもかなり経験豊富な先生もいるらしい。
ということで、私達はまずFMC東京クリニックにダメ元で電話をすることにした。
ダメ元というのは、口コミでは胎児診断の予約はみんな妊娠が分かった時点で行うため、いつも予約がいっぱいだとあったので…
電話をかけてみる。そして事情を話し、今すでに12週であることを伝えた。
(というのも、このNT:頸部浮腫の測定は12週が最適であり、基準。13週だと判定としてはギリギリ。また、13週末まではギリギリ羊水検査ではなく、絨毛検査が行えるギリギリのラインなのだ。)
そうすると、非常になれた感じの電話受付の方が細かいヒアリングを行い、「カウンセラーに確認してから折り返します」と伝えてくれた。
すると、すぐに電話がかかってきて。
「予約を取ることが出来ました。来週の火曜日、16時からでしたら大丈夫です。その前に、この前の検診で撮ったエコー写真をメールで送ってください。そして当日は問診票にすべて記入をしてから10分前に受付をしてください。」
という丁寧な案内があった。
こうして、私達は詳しい胎児診断を受ける決意をした。
11月16日 不安が増大した日(後半)
エコーが終わり、また待合室で長いこと待たされて、ようやく名前を呼ばれた。
診察室に入ると、まず私の血圧がとても高いこと、また、かなり疲れが見られること、あとは子宮筋腫が3つあり、1つは子宮口に近いから分娩もおそらく帝王切開になるということを告げられた。
まずは血圧をしっかり管理するように指導を受けた。
実は前にも何回か血圧のことを指摘されたことはあった。
なので、自宅でも測定はしていて、実は家ではあまり高くないのだ…
でもここ数日は家でも高い…その原因はストレスと疲労であると感じていた。
そこで今自分の抱えていることを先生にお話しすると。
「とにかく、診断書を書くから、休みましょう。そして様子を見ましょう。」
頭の中には「あぁ色々な人に迷惑をかけてしまう」という感情と
「解放される。これで出産に向けてしっかり体を整えられる。」という安ど感が入り交ざっていた。
妊娠高血圧合併症。
ということで次の2週間後の検診までは仕事は休んでください。
そう伝えられた。
そして「他に気になることはありませんか?」と先生に聞かれて。
「先生、前回の診断で赤ちゃんの首の後ろに浮腫があるかもしれないと言われたのですが…」と伝えた。
先生の手元にはすでにエコー室で撮影した画像がかなりの量で送られていたのに、先生は気づいていない…大丈夫なのかな?と思いながらも、念のため伝えた。
「じゃあ、診てみますね。」
そこで先生にも見てもらうことに。
「う~ん」
O先生はまだ若い感じの先生でよく判断できないようだった。そこで奥にいた指導医っぽいN先生が呼ばれた。
そしてN先生の顔色がすぐにひきつった…
「ちょっとこっち。エコーこっちに動かして。」
O先生に色々指示をだす。
そして2人で話をするのがすぐ横で聞こえる。
「NT」「ヒグローマ」・・・
この時点であまり聞いたことのない言葉だったけれど、
あまり良くない話なのはすぐに気が付いた。
すぐ横にいる夫も私の手を握りながら不安そうな顔をしていた。
「ちょっと診断書を書くので、外で待っていてください。」
しばらくして呼ばれて伝えられた話は以下の通りだった。
①頸部浮腫(NT)が6.7mm、この数値はかなり大きく、65%以上の確率で染色体異常が疑われる。
②経過を観察し、15週になってから羊水検査を薦める
最悪の場合はお腹の中で亡くなってしまうということ。
かなりの確率で障害があるということが伝えられた。
私達夫婦は前から何回か話す機会があったのですぐに2人の意志として
「障害があっても、生まれてきてくれるのであれば、命のある限り育てます。
そのために最善のことをしたい。」と伝えることができた。
先生からは羊水検査をすることによって育てるに難しい障害が分かれば、そこで中絶することについても伝えられたけれど、私達にはその選択肢は始めから存在しなかった。
それでも羊水検査をするメリットは「産まれた時に最大の準備をしておくことができるから」だと説明を受けた。
とにかく、その日はそれで終了。
2週間後にまた様子を見ましょう。ということで、終わった。
もう時間は夕方を廻っていた。
私はいったん職場に戻り、明日からまずは2週間お休みしなくてはいけないことを校長に伝え、引き継げる部分は準備をして帰宅した。
頭の中はぼーっとしていた。
でも確かにまだ私のおなかの中でピコちゃんはしっかり生きている。
心臓も動いている。
手も足もパタパタとかわいく動かしていた。
ほんの少しだけど胎動みたいなものも感じている。
奇跡も起きるかもしれない。
そんなことを思いながら過ごしていた。
11月16日 不安が増大した日(前半)
この日、自分の受け持ちの6年生は卒業アルバムの個人写真撮影があった。
みんな本当に可愛くて、大きくなったな…もう卒業するのか…
とても感慨深くその撮影を見守った。
担任の自分の写真も撮影してもらい、この日はそこで早退。
紹介状を持って出産を予定していたK病院へ。
すでに10:30の時点でものすごく込み合っていて、婦人科はもう外来をストップしていた。でも産科なのでセーフ。
夫も病院まで来て、2人で長いこと待合室で待っていた。
ここではエコーは医師ではなく、技師が行うという事で、まずは2階のフロアへ案内された。
エコー室は病棟の奥にあった。
ここは1回目の流産の思い出の場所だった…
なんだかすごく複雑な気持ちがよみがえってきた。
1年と少し前…1回目の妊娠。でも、いくら待っても胎嚢が見えなかった。
でもhcgホルモンはどんどん上昇して、子宮外妊娠も疑われた。
そこでこのK病院にお世話になっていた。
結局、掻把手術を予定していた前日に突然の腹痛(実は陣痛だったのだけど)。
そのままタクシーで病院に向かい、1階の受付前で倒れた。
そしてそこで流産→処置→入院という経験をしていた。妊娠8週目の出来事。
結局前回は1度も赤ちゃんの姿に会うことなく流産してしまった。
それでもそのショックは大きくて、そのあと私達夫婦は色々な感情を乗り越えた。
そこで、ようやく与えられたピコちゃん。
しっかり胎嚢も育ち、心臓も動きはじめた。ピコピコピコ…
それを見た時、私は涙が自然と溢れてきた。
あぁすごい!私の中に私とは違う命が住んでいる。
その小さい姿は、本当に言葉で表せない愛おしさだった。
エコー室では今までのクリニックとは違う鮮明な画像でピコちゃんを見ることができた。足と手をパタパタと動かして、時々指を口に入れているように見えた。
すごい。
12週と4日ですでにもう「赤ちゃん」の姿がしっかり出来上がっていた。
でも、すでにこの時、
もしかしたら、ピコちゃんはすごく苦しんでいたのかも…
「なんだかうまくいかないなぁ」って悩んでいたのかな?
それが次の医師の診断で明らかとなった。
11月14日念のための検診で
11月14日。
いつも見てもらっていた八王子のMレディースクリニックへ。
検診は前回の2週間後の予定だったけれど、少し早めてもらった。
理由は、最近ちょっとめまいがあって、血圧が高くなってしまっているのが分かって怖くなったから…
この時点で12週2日。
仕事が11月に入ってから加速度的に忙しくなっているのを感じていた。
なるべく無理をしないように…妊娠初期の今が一番大切なんだから。
と思っても、私立小学校の教員の仕事は日々本当に色々なことだらけ。
しかもイベントも重なり、6年生の受験に、来年度の体制決め…
役職が4つもついてしまっている異常事態の私は、いっつも頭の中は色々な仕事でいっぱいになってしまっていた…
ストレスの限界だったんだと思う。
そしてそれが血圧上昇に…このままではヤバい。どうしよう。
そんな私に歯止めをかけてほしくて受診したというのが本音だった。
もちろん、赤ちゃんもこんな私の状態が悪い影響を与えていないか心配で仕方なかった。
先生は経腹エコーで赤ちゃんを見てくれた。
「心臓は元気に動いていますね。」
よかった…
「血圧は確かに心配だし、正直言ったらもう出産まで仕事しない方がいいけど、でも経済的なこともあるしね…とにかく、相模原K病院に紹介状を書くから、そこで診てもらってください。」
「それから、たぶん大丈夫だと思うんだけど。首の後ろに浮腫みがあるかもしれない。でもここでは詳しく見れないし、このころの赤ちゃんの浮腫みはなくなることも多いから心配はいらないと思います。でも念のため、経過を見てもらってください。」
一抹の不安を覚えながらも、まずはしっかり心臓も身体も動いているピコちゃんに(心臓がピコピコと動いているのが見えて、夫とつけたベビーネームでした)安心して帰宅しました。
元々、この12週のうちに、産科のないMレディースクリニックは卒業して、NICUもあるし、この地域では大きめの病院で産科もある相模原K病院に移る予定でいました。でもその予定を少し早めて、紹介状をすぐに書いてもらい、仕事にあまり支障のない翌々日にK病院を訪れることに決めました。
まさかその数週間後にこんなことが待っているとはこの時点では夢にも思っていなかったけれど…なんだか不安はいつも心のどこかに持っていたような気がします。